日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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上皇とは何か

 中学や高校の日本史において上皇という言葉が出てきます。上皇とは何かといえば、皇位を譲位して後継者に譲った、譲位元の天皇に贈られる尊号になります。正式には太上天皇といいます。とくに白河上皇や後鳥羽上皇など院政を布いていた時代に多く出てきます。始まりは、持統天皇が文武天皇に皇位を譲位した時からになります。その後、江戸時代後期に仁孝天皇に譲位した光格天皇まで、59人の上皇が存在しました。

 

 上皇が、出家した場合を法皇といい、正式には太上法皇といいます。法皇の称号は平安時代の宇多天皇が初めてであり、他には白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇などが法皇として院政を行っています。江戸時代の霊元法皇が、この称号を使った最後の上皇となります。譲位した天皇が上皇といいますが、先例として天皇にならずに上皇になった例や、女性が上皇の立場になった例もあります。

 

 天皇にならずに上皇になった例
 江戸時代後期に後桃園天皇が崩御した際に、世継ぎがいなかったことで、閑院宮家から典仁親王の子であった光格天皇を養子となり、即位しました。光格天皇は、天皇に即位したことによって、父親よりも位が上がってしまい、しかも禁中並公家諸法度において親王の序列が摂関家よりも下であること、江戸幕府以前の先例にならい典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしました。しかし時の老中松平定信は、徳川家康が定めた禁中並公家諸法度は、江戸幕府にとっての祖法であるとして反対されました。
 そのため、この時には上皇の尊号が贈られることがなくなりましたが、時の将軍である徳川家斉も、父である一橋治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていました。しかしその結果、一橋治済の大御所の尊号も送ることが出来なくなり、一橋治済と徳川家斉父子の怒りを買い松平定信は失脚することになりました。さらに1884年(明治17年)になり、明治天皇の高祖父にあたるということから、慶光天皇の諡号と太上天皇の尊号が贈られました。ただし天皇に即位してはいないため、大統譜には記載されていません

 

 女性が上皇の立場になった例
 日本には古代末期から中世において、皇室の家督者としての実権を握ったものとして治天の君というものがありました。治天の君は、在位の天皇の立場や院政を行う上皇の立場とあります。そして女性が上皇になった例というのは、1352年(正平7年)に観応の擾乱という抗争が起こります。この際に、足利尊氏ら室町幕府は、京都を奪回したものの、南朝が京都に侵入した際に、治天の君だった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王を拉致、そして三種の神器までも南朝に接収される事態となりました。
 正当性を担保するため、幕府は出家する予定であった皇族の弥仁王を探し出し、そして後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母である西園寺寧子(広義門院)に治天の君になってもらうようにしました。西園寺寧子(広義門院)が、治天の君として院政を開始し、継体天皇の先例を引き合いに出し、弥仁王は後光厳天皇として即位しました。

 

 上皇は、そういった異例的な先例もありますが、あくまで皇位を譲位して後継者に譲った、譲位元の天皇に贈られる尊号になります。

 

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