日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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後光厳天皇の即位について

 後光厳天皇とは、南北朝時代の北朝4代の天皇になります。
 まず後光厳天皇が即位する前に、1352年(正平7年)に事件が起こりました。それは、治天の君である光厳上皇、光明上皇、崇光上皇と皇太子直仁親王が南朝側に拉致されるという事件になります。さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天の君、天皇、皇太子・神器不在の事態に陥りました。

 

 そして足利義詮のもと再建された室町幕府は、天皇や治天の君はおろか、皇位継承者を喪失し、北朝をどう復活させるかが問題になりました。そこで、幕府は、後伏見上皇の女御であった広義門院(西園寺寧子)を治天の君にして、光厳上皇の末子弥仁(いやひと)を擁立する案を出した。この時代の先例として、治天の君による譲国の手続きが不可欠であり、治天の君なくして政務が取れなくなってしまう仕組みになっています。幕府にとっては、天皇が武家の首長を征夷大将軍に任命することで正当性を表明することであり、不安定な時代においては、とくに必要な措置でした。そのため、先例のない女性の治天を登場させ、神器も神鏡を納めた空箱を神器に見立てて践祚を行いました。これを「如在の儀」といいます。

 

 先例を探すことに窮した廷臣らは、継体天皇の践祚の先例を持ち出しました。これにより、弥仁王は、後光厳天皇として即位しました。

 

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