日考塾〜憲法とは即ち歴史である

このエントリーをはてなブックマークに追加

官職貴族の登場

 イタリア半島の北イタリアとシチリア島を除く地域が統一されてきた時期に貴族(patricii)と平民(plebis)の対決に終止符が打たれることになりました。
平民の中でも、ローマ市民で構成される軍隊で騎兵として参戦できる程の裕福な家系があり、
といいますのも騎兵として参戦するために自分達で馬を育てる必要がありますので、それだけの財力を持っている人達がいます。
 そして元老院議員になるためには、財務官(quaestor)に立候補する必要があります。
当時は今と異なり、職業政治家ではありませんので、政治家は無報酬となっていますので財力が必要になっていました。

 

 対外的には現在のチュニジアにカルタゴと呼ばれる海洋国家が存在しておりその国と衝突するポエニ戦役の時代に入ってくることになります。
 その中で官職貴族と呼ばれるノビレスが登場します。
それは平民の中でも財力がある人達が財務官などの政務官職になることで、「新参者」として元老院に入ってくることになります。
 とはいえ実際にはそこまで多くありません。
 共和政後期に入って手紙魔で有名な、マルクス・トゥッリウス・キケロは官職貴族(nobires)になります。
 さらにノーブレス・オブリージュという言葉が今もありますが、意味としては「高貴なるものの義務」、貴族は一般の人よりも多くのことをする必要があり、
いわば無私の行動を促す意味合いがあります。つまりノビレスというラテン語はその後の貴族の語源にもなっています。

 

 さて共和政の中期から後期にかけて「新参者」が入ってくるノビレスが出てきましたが、
「ローマ共和政社会とは」でもお話している、保護者(patronus)と庇護者(clientes)関係が網目上にローマ社会にあります。
これを伝えるエピソードで、紀元前49年のカエサルの「賽は投げられた」で有名なルビコン川を渡る直前でのお話があります。

 

 まずカエサルは紀元前59年に執政官という最高官職についていました。
その翌年から10年間ガリアと呼ばれる現在のフランスに属州総督(proconsul)として赴任または遠征をしました。
当時はあらゆる部族がいましたが、それとともに属州総督配下の軍団長(legatus)が何人かいました。
 その中の一人にティトゥス・ラビエヌスという人物がいました。

紀元前63年頃から政治的な心情においても10年間のガリア遠征においてもカエサルとともに戦ってきた人でした。

 そのガリアの任期が終わり、カエサルの政敵に国家の敵として元老院から決議が出されることになると、本来は武装解除しなければならない、
いわば“国境”にあたるルビコン川において政敵を打倒するため、武装解除せずそのままローマへと進軍することになります。

 

 そのルビコン川を渡る直前で、カエサルが信頼していた軍団長ラビエヌスは、ポンペイウス側につくためカエサルのもとを去りました。
ラビエヌスは政治的な信条によってカエサルを捨て、ポンペイウスを選んだのではなく、ピケヌムという地域出身の平民であるラビエヌスが、
その地方一帯を所有していた大地主ポンペイウス家の、親代々の庇護者(clientes)であったためです。
 ラビエヌスが17歳の年に、6歳年上のポンペイウスは、ブルンディシウム(現ブリンディシ)に上陸したスッラのもとに、自費で編成した三個軍団を従えて馳せ参じています。
このポンペイウスが編成した三個軍団は、大地主である彼の庇護者達で構成されていました。
 そしてラビエヌスは庇護者の信義を全うする生き方を選びました。
ラビエヌスは、カエサルがルビコン川を越えてから、カエサルの進路と交叉しないようにルビコン川を越えポンペイウスのもとに行きました。
カエサルもそのことに憤慨するわけでもなく、ラビエヌスが置いて言った荷物を届けるように命じました。

 

 このように保護者(patronus)と庇護者(clientes)関係は強く結びついているわけです。

 

この記事はお役に立ちましたでしょうか。
この記事が誰かの役に立ちそうだと感じて頂けましたら、下のボタンから共有をお願い致します。


日考塾 所信 日考塾概要 お問い合わせ 参考文献