日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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律令法について

 時代背景として、中大兄皇子と中臣鎌足による乙巳の変が起こり、皇極天皇の前で、蘇我入鹿を暗殺しました。その後、大化の改新という政治改革が行われ、蘇我氏を始めとした豪族による政治ではなく天皇に移りました。また法制度も唐の法制度である律令法を継受し、採り入れることになりました。大まかな変遷は以下のようになります。

 

 天智天皇が即位した668年(天智元年)に全二十二巻の近江令が制定され、これが最初の律令法典になります。しかし存在を裏付ける史料が少ない所から存在していないという説もあります。これは「令」であり「律」はこの時期には確立していませんでした。

 

 次に天武天皇の御代において、編纂の詔が下って編纂委員の任命があり、制定され、令は二十二巻、律は巻数未詳の浄御原律令が689年(持統天皇3年)6月に施行されました。これも散逸しており、内容はわからなくなっています。

 

 次にもっとも有名な大宝律令が、701年(大宝元年)8月に制定されました。令は十一巻、律は六巻となっています。しかしこれも散逸していますが、令集解などで見られます。

 

 大宝律令制定後、718年(養老2年)に法典の編纂が行われ養老律令が制定されました。その後、孝謙天皇の757年(天平勝実9年)に令は十巻三十編、律は十巻十二編の養老律令が施行され、その後、形式的には明治維新の頃まで続くことになります。

 

 律令の、とは、刑法的存在であり、は行政法と民法的存在となっています。この時代、その前の時代から引き続き慣習法を主体とした時代で、皇位に関することなどは、不文法でした。成文法として定められたのは、天皇という役職や東宮つまり皇太子について、二官八省について、公式令(くしきりょう)という天皇が出す「詔」や「勅」などの定義や形式といった部分になります。大宝令の儀制令の第一条において、始めて『天皇。詔書所称』と明文化しています。つまり詔書の時は天皇と称するというものです。ちなみに、祭祀の際は天子対外に対しては皇帝と称することも定められています。これは、明治における日清戦争や日露戦争の宣戦の詔書においても同様となっています。また陛下の呼称についても、天皇に文書を奉る際に称するなど、同様に定められました。

 

 このように、現在に通じる内容の一部は成文法の形で、明治に定められた皇室典範の内容については不文法として運用されていました。

 

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