日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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江戸の武家法について

 徳川家康は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開くことになります。そこで大名の取り締まりに関する法令として、武家諸法度を1615年(慶長20年)7月に第2代将軍徳川秀忠が発布します。その後5回改正が行われていきます。

 

 江戸時代で特筆すべき法令といえば禁中並公家諸法度の制定になります。これは十七ヵ条になっており、皇室典範の性格を兼ね備えているため、当然憲法的性格を持つものになります。鎌倉以来法的に不干渉としていましたが、皇室のことに関して具体的かつ細部に規範を立てることになります。制定としては、徳川家康と徳川秀忠が、関白である二条昭実と相謀ったものになります。第2条では、これまでの慣例として成り立っていた宮中席次を変えるものになります。親王を三公つまり太政大臣、左右大臣の下に置いたこと、他には、女子は家督相続の資格がないこと、関白伝奏の権能に関することなどを定めたものになります。あとは、寺院諸法度というものを制定し、鎌倉以来、寺院などは独立的位置にいましたが、幕府により統制されることになりました。

 

 その他に元和 8月に公武法制応勅十八箇条というものが制定されたと言われています。言われているというのは、現在ではこの法令は偽法令と言われているためです。日本の国柄を表す表現があります。これが偽法令というのは、第十八条に当時にはなかった東叡山についての記述があることからになります。鎌倉や室町とは違い、徳川が天下統一し、それまで朝廷や寺院勢力については、お互いに干渉しないものでしたが、武家勢力の力がそれまでより圧倒している所から、こういった法令が出されたのではないかということです。 

 

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