日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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帝国憲法はどのように作られたのか

帝国憲法はどのように作られたのか記事一覧

王政復古の大号令とは

 王政復古の大号令とは一言でいえば、既存の制度をすべて白紙にするというものになります。 慶応3年(1867年)12月9日に天皇より発せられたものであり、徳川家による幕府政治、京都における律令体制という既存の制度を、新しい制度を創り上げるために、幕府の征夷大将軍や、摂政関白といった役職を廃止、新たに総...

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五箇条の御誓文とは

 まず五箇条の御誓文の条文は以下のとおりになります。五箇条の御誓文 明治元年三月十四日一 広く会議を興し万機公論に決すへし一 上下心を一にして盛に経綸(競輪)を行ふへし一 官武一途庶民に至る迄各其志を遂け人心をして倦(う)まさらしめんことを要す一 旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基くへし一...

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五箇条の御誓文は憲法と同等

 五箇条の御誓文は、新政府の基本綱領として明治時代に出されたものにはなりますが、内容を考えると、事実上の憲法の位置づけになります。なぜならば、国家の基本が指し示されているからです。 憲法論議において、国民の権利を厚くするための内容や、細かい制度について憲法に書きこもうとしています。しかし憲法において...

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木戸孝允の憲法制定意見書を読む

 明治6年7月に木戸孝允が、朝廷に上奏した憲法制定意見書になります。この意見書は、岩倉使節団の副使として欧米を視察し、今日本に必要なこととして、憲法が必要であることが記載されています。以下がその内容になります。孝允、材識?烈(ざいしきせんれつ)、学問空疎、叨(みだ)りに要路に当る。既に巳(すで)に恐...

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大久保参議起草政体に関する意見書を読む

 明治6年11月に大久保利通が、立憲政体に関して起草した意見書になります。この意見書は、その後明治8年立憲政体樹立の詔に反映されることになります。以下がその内容になります。 世の政体を議する者輙(すな)はち曰く、君主政治或は曰く、民主政治と、民主未だ以て取る可からず。君主もまた未だ以て捨つ可からず。...

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立憲政体樹立の詔とは

 大久保利通が明治6年「大久保参議起草政体に関する意見書」において述べられたことを基礎として、漸次、立憲政体を構築する上で、立法機関に当たる元老院と司法機関に当たる大審院を置くこと、さらに地方行政を制度化することで中央集権体制を確立していくことになるという内容の詔書が発布されることになります。以下が...

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井上毅の憲法意見第一を読む

 井上毅がイギリスを模範とする立憲制度に反対的ということについて、明治14年6月に出された「憲法意見第一」というものがあります。 これには、イギリスとプロイセンを比較しています。 イギリス議会は立法権だけではなく、行政の実権を掌握していること、イギリスのことわざを引いて、「英国議院はなし得ざることな...

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国会開設の勅諭とは

 明治8年の立憲政体樹立の詔を継承し、少しずつ立憲政体を構築してきました。ここで10年後の明治23年に向けて国会を開設することを宣言するものになります。明治十四年十月十二日朕祖宗に千五百有余年の鴻緒を嗣き中古紐を解くの乾綱を振張し大政の統一を総覧し又夙に立憲の政体を建て後世子孫継くへきの業を為さんこ...

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帝国憲法はどのように成立したのか

 憲法を始め内閣や議会など立憲制度構築の立役者は伊藤博文になります。 伊藤博文は長州藩出身で明治維新に参加し、大日本帝国憲法の起草の中心人物です。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任。1909年ハルビンで朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺され...

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シュタイン博士から学んだこと

 伊藤博文が編纂した憲法資料において、明治12年11月17日のシュタインとの談話要領が記載されています。そこで憲法においてとくに重要な部分として以下になります。一 憲法は巳に発布せられその周緻精確なることは欧州憲法の右に出づること敷等なり。ただし歴史を欠くがゆえに、欧州人は少しく奇異の思をなす。この...

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シュタイン博士の研究について

 シュタイン博士は、ドイツ国法学について批判をしています。それはローマ法継受という学会の流れがあり、その権威の存在に合ったのが、フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーという人物になります。 サヴィニ―を始めとするローマ法継受を考える学派は、Corpus Iuris(コルプス・イウリス)つまりローマ...

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井上毅という人物

 まず経歴としては以下になります。井上 毅(いのうえ こわし)天保14年12月18日(1844年2月6日)〜明治28年(1895年)3月15日)肥後国熊本藩家老・長岡是容(監物)の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になります。伊藤博文と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参...

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井上毅が鹿野山に登り閃く

 まず明治19(1886)年に内閣総理大臣である伊藤博文から憲法起草を委嘱され、同年末から翌年初頭にかけて、安房・上総・相模と憲法思索の旅に出かけました。 以下は、小中村義象編纂の 『梧陰存稿』(六合館、1895)に記載されているものであり、『井上毅伝 史料篇』3巻にも記載されています。内容としては...

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言霊を考える

 井上毅は、言霊という題目の始めに「古言を吟味することは、一つの歴史学なり」ということを述べています。 古言を古事記や日本書紀などを始めとして、定義付けを行っています。その言葉は、他のページでも出ているシラスとウシハクになります。まずヨーロッパや支那の歴史を見れば、土地と人民との二つの原質を備える国...

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紀元節御親祭式はどのように行われたか

 まず明治23年2月11日に、伊藤博文らを中心に、日本の歴史、伝統、文化を踏まえた、自主憲法たる帝国憲法が発布されました。その日は、日本国内がお祭りになります。その発布にあたり紀元節御親祭式という儀式が執り行われました。紀元節御親祭式 午前8時に宮内省官吏着席 午前9時頃、宮中の賢所の御垣内に入り、...

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憲法発布式はどのように行われたのか

 明治23年2月11日の午前9時から始まった紀元節御親祭式が終わり、憲法発布式に先立ち、伊勢神宮には掌典長九条道孝公爵、神武天皇御陵には、式部次官高崎正風男爵孝明天皇御陵には、掌典竹屋光昭子爵を勅使として派遣し奉幣しました。また官国幣社へは、地方官を勅使として奉幣しました。 午前10時を過ぎた頃、内...

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帝国憲法御告文を読む

 明治23年2月11日の紀元節御親祭式において、明治天皇が皇祖つまりご先祖様にお祈りをする形で始まります。御告文皇(すめら)朕(わ)れ謹(つつし)み畏(かしこ)み皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の神霊(しんれい)に誥(う)け白(もう)さく皇(すめら)朕(わ)れ天壌無窮(てんじょうむきゅう)の宏謨(こう...

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帝国憲法発布勅語を読む

 明治23年2月11日の憲法発布式において、明治天皇が勅語を読み上げます。憲法発布勅語朕国家の隆昌と臣民の慶福とを以て中心の欣栄(きんえい)とし朕か祖宗(そそう)に承くるの大権に依り現在及将来の臣民に対し此の不磨の大典を宣布す惟(おも)ふに我か祖我か宗は我か臣民祖先の協力輔翼に倚(よ)り我か帝国を肇...

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典憲体制とは何か

皇室典範と、帝国憲法はお互いに干渉しないことを表すものになります。皇室典範を始めとする皇室法は、元々は不文法で、歴史的、日本の国体の根拠に基づいています。皇室典範は法律よりも上位に位置し、憲法と同等であること相互不干渉を表す条文があります。帝国憲法第七十四条 皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せ...

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公式令(こうしきれい)について

律令時代には公式令(くしきりょう)という、公文書の様式を定めた令がありました。その律令以来の公式令を改めたものとして、公式令(こうしきれい)があります。公式令には、帝国憲法や皇室典範の改正に上諭を附すことや御璽が必要であるなども定められています。その中で第1条には、詔書と勅旨の記載があります。第一条...

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