日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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帝国憲法はどのように成立したのか

 憲法を始め内閣や議会など立憲制度構築の立役者は伊藤博文になります。

 

 伊藤博文は長州藩出身で明治維新に参加し、大日本帝国憲法の起草の中心人物です。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任。1909年ハルビンで朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺されました。
 伊藤博文は、日本の立憲政治の基礎を作った、生みの親と言える人物です。

 

 帝国憲法制定までの過程として、明治8年(1875年)に立憲政体樹立の詔を公布します。議会として元老院、裁判所として大審院を設置します。そしてすでに明治4年(1871年)に廃藩置県の詔が出されている状態でもありますので、地方官会議を同じ年に開きます。明治14年(1881年)に国会開設の勅諭が出され、明治23年までに国会を開き立憲政治を行うことを天皇の名で宣言をします。その後立憲政治調査として、伊藤博文らは憲法を始め、立憲政治とは何かを調査するためにヨーロッパへ渡ることになります。

 

 まずドイツにおいてルドルフ・フォン・グナイスト、アルバート・モッセという憲法学者からドイツ憲法について学びます。当時は普墺戦争や普仏戦争で勝利し、ビスマルクという宰相が中心となってプロイセン王国からドイツ諸国を束ねドイツ帝国を樹立していました。ヨーロッパの情勢としてはビスマルクの剛腕外交によって周辺諸国は牽制された状態であったことも特徴の一つです。

 

 その後、伊藤博文らはオーストリアのローレンツ・フォン・シュタインという人物から憲法について学びます。シュタインから学んだことが目から鱗で、単に近代的な条文を並べるだけでは意味がないこと、憲法とはその国の歴史、伝統、文化によって作られることを教わりました。この伊藤博文らが学んだこと、それこそがその国の国家体制、つまり国体になります。

 

 日本に戻った後、日本の歴史、伝統、文化を憲法に反映させるために、古事記や日本書紀を始め、日本の歴史を一から研究し、夏島という場所において伊藤博文を中心に、井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)とともに憲法草案を作成しました。調査から始まり作成まで十数年の年月をかけて作られた帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日の建国記念日に大日本帝国憲法として公布されることになりました。

 

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