日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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井上毅が鹿野山に登り閃く

 まず明治19(1886)年に内閣総理大臣である伊藤博文から憲法起草を委嘱され、同年末から翌年初頭にかけて、安房・上総・相模と憲法思索の旅に出かけました。

 

 以下は、小中村義象編纂の 『梧陰存稿』(六合館、1895)に記載されているものであり、『井上毅伝 史料篇』3巻にも記載されています。内容としては小中村義象が井上毅と共に憲法思索の旅に出かけた際、井上毅の閃いた部分を回想したものになります。

 

 『鹿野山にのほるほとなりき、車にてはゆきかたきところ多かりしかは、先生は、右の手に仕込杖をもち、左の手にかの書類を握りなから歩きたまひしか、ふきおろす風いみしくて、手も凍るはかりなれは、之をかばんに納めたまひ、いさ話せむとて問ひおこされしは、大国主神の国譲の故事なりき。これはいかに、これはいかになと問ひたまふ中に、かのしろしめすとうしはくとの事に及ひしかは、そはいともいとも貴きことなりとて、欧洲各国建国のこと、さては支那立国の本なとくらへかたらひ、かへりなは直に取調へよとのたまふ。山に上りつきたるころは夕くれにて、いと寒きに、霙さへふりしきれは、蒲柳の質におはします身いかにしてと、独こころつかひせらるるに、先生は洋服をもときたまはす、火鉢をいたきて宿のあるしをよひ、硯とりよせて書きたまふは、かの道すからかたりまつりしことのあらまし也、さてこれにてよきか、このことは調へてよなとのたまふ、その事にあたりてつとめたまひしことかくのことし、鎌倉の雪の下に遊ひしころはかりの事は、大宝令にはいかかありしかとのたまふに、をほく答へまつりしかと、暗記の疎漏もやあらむ、かへるまてまたせたまへといひしに、大事なり、さらは一日はやめてこの旅をはらむとのたまふ、時に雪ふり風さへふきあれて車もめくりかぬるを、いさ是より藤沢まてはしらむとて、岬道つたひに出立たまふ、例の杖を肩にして、たた走りにはしりたまふに、おのれもまけしと走る、雪はいよいよ降りまさりて、目鼻にみたれいり、顔は針もてささるやうなるに、遥に旅人の一行見ゆ、かの連おひこさはやとて、わさと溝をこえ川をわたりて近道をすすむ、先生はこの日臘逓の帽子を深くかふりたまふに、雪つもりて、今は坊主のことくになりたまへは、恠(あや)しき御さまかなといへは、何にてもあれ、かの連追ひこしたるか愉快ならすやとわらはせたまふ。藤沢につきしは昼過るころなりしか、是より車をやとひて神奈川まていそかせつ。あはれその折はかくはかりををしくかくはかりいさましくおはせしものをけに無きもののかすそふ世には有けり。』P703-704

 

 憲法思索の旅に出て、シラスとウシハクについて閃き、それを調べ、各国の建国や成り立ちも調べることで研究を重ねていきました。シラスについては、帝国憲法第一条がそれを表しています。

 

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