日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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憲法発布式はどのように行われたのか

 明治23年2月11日の午前9時から始まった紀元節御親祭式が終わり、憲法発布式に先立ち、伊勢神宮には掌典長九条道孝公爵、神武天皇御陵には、式部次官高崎正風男爵孝明天皇御陵には、掌典竹屋光昭子爵
を勅使として派遣し奉幣しました。また官国幣社へは、地方官を勅使として奉幣しました。

 

 午前10時を過ぎた頃、内閣総理大臣は百官有司(ひゃくかんゆうし)と共に、つまり役人らと共に宮中正殿の式場に入り、その入場の諸員には内閣総理大臣、枢密院議長、各大臣、親任官、公爵勲一等、勅任官、府県知事など侯爵、伯子男爵総代官1名、奏任官、府県会議長、新聞社などになります。
 金殿の正面に天皇の高御座(たかみくら)を南に向けて設け、皇后の高御座はその右側の方斜めに設けられ、金殿の左側に皇族の御息所(みやおどころ)の坐所となっています。

 

 その後、楽隊の君が代を奏し、入御。
天皇は一同粛然し敬礼する中、大元帥の御軍服に勲章を佩用(はいよう)し、高御座に着御する。
皇后は、洋風中礼服の女官12人を従えて、洋風の御礼服で入御された。

 

 剣璽は勅任侍従が、奉し、高御座の左側に立ち、侍従、親王、内大臣は右側に立ち、憲法を納めた筥(はこ)を奉し、天皇御璽は侍従が奉す。この時に三条内大臣が恭(うやうや)しく憲法を捧げ奉り、天皇は勅語を読み上げました。

 

憲法発布勅語
朕国家の隆昌と臣民の慶福とを以て中心の欣栄(きんえい)とし
朕か祖宗(そそう)に承くるの大権に依り現在及将来の臣民に対し此の不磨の大典を宣布す
惟(おも)ふに我か祖我か宗は我か臣民祖先の協力輔翼に倚(よ)り
我か帝国を肇造(ちょうぞう)し以て無窮(むきゅう)に垂れたり
此れ我か神聖なる祖宗の威徳(いとく)と並に臣民の忠実勇武にして国を愛し公に殉(したが)ひ以て
此の光輝ある国史の成跡(せいせき)を貽(のこ)したるなり
朕我か臣民は即ち祖宗の忠良なる臣民の子孫なるを回想し其の朕か意を奉体(ほうたい)し
朕か事を奨順し相(あい)与(とも)に和衷協同し
益々我か帝国の光栄を中外に宣揚(せんよう)し
祖宗の遺業を永久に鞏固(きょうこ)ならしむるの希望を同くし此の負担を分つに堪(た)ふることを疑はさるなり

 

 粛然として秋雨の収まった後のように、一同感涙に咽ぶように終わり、憲法をとり給い、静かに黒田内閣総理大臣に下附し、式が終わり、各国公使や各大臣と握手し、参列諸員が退散しました。

 

 午前11時頃に101発の祝砲がとどろく中、皇居門外の広場やそのほか、市街の四方八方に花火が放たれて、各地が喜び合いました。

 

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