日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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戦前の内閣法制局はどんな組織か

 始まりは、明治4年(1871年)太政官正院において法制課が設けられました。しかしこの時代は頻繁に行政改革を行っている時代でした。法制局は、1875年(明治8年)太政官正院の法制課から改められて組織されました。その後正院の呼称が明治10年に廃止され、明治13年になると法制局が廃止され法制部が設置されました。明治14年になると太政官に参事院を置き、その中に法制部を設置、明治18年になると太政官が廃止され内閣制度が創設され、内閣総理大臣の直轄に法制局を設置、行政部、法制部、司法部の三部に構成されました。

 

 では今の内閣法制局と同じような形で存在していたのかといえば、まず帝国議会との関係になりますと、現在のように衆議院あるいは参議院に内閣法制局長官が出席しての答弁や憲法論議はそれほど多くはありませんでした。それは法律案の数が少なかったことがあります。
 そして法制局において鬼門として存在していたのは、枢密院になります。枢密院は、現在でこそ廃止されてしまいましたが、現在の皇宮警察本部庁舎が置かれている場所に枢密院があり、帝国憲法第56条を根拠とする天皇の最高顧問の府となっていました。枢密院の権限としては、憲法に附随する憲法附属法や条約や天皇の名で出される勅令などあらかじめ枢密院に付議しなければならないことになっており、憲法の番人とも呼ばれる機関でした。枢密院審査においては、「いまでも夢にみるくらいにこわかった」と佐藤達夫元法制局長官が回想されるようなところでした。

 

 枢密院に案件が付議されると、まず書記官長審査というものがあり、法制局の部長級が関係省の職員を連れて説明に行きます。重要な案件については、次に審査委員会にかけられます。この審査が枢密院の実質上の審査で、関係大臣、次官、局長と法制局の長官以下が出席するのが通例でしたが、法律関係の質疑に対しては、法制局が対応していました。本会議は毎週水曜日が定例日で、天皇陛下の御臨席の下に、枢密院議長、副議長及び各枢密顧問官のほか、総理大臣以下各大臣も、制度上枢密顧問の地位を有していたので、出席し、この他に枢密院書記官長や書記官、法制局長官などが出席していました。法制局が、各省大臣から閣議請議される法律案、勅令案を審査するだけでなく、自ら法律案又は勅令案を起案上申出来ることもまた、法制局官制の認めるところでした。

 

 船田中元長官は、枢密院との折衝について、次のように述べています(「エコノミスト」一九七一年二月二三日号九三頁、談)。
 「企画院ができましたから、国策に関係する問題は、だいたい企画院のほうでやるようになった。そういう点では企画院の出来る前の法制局長官よりも、仕事は楽になったわけです。何といってもいちばん厄介なのは枢密院ですよ。いろんな勅令や罰則のついたものは、必ず枢密院にかけなきゃならんですからね。枢密院で審査会をやり、それから本会議にかける。審査会に出て政府案を説明するのは、法制局長官ですから、これはなかなかやっかいです。そして枢密顧問官は、国会議員よりもみんな専門家ですからね。
……だいたい軍人出身とか、古い政治家出身の枢密顧問官というのは、あまりやかましいことはいいませんが、学者とか貴族院からいった枢密顧問官はなかなかやかましく、説明が非常にむずかしかった。しかしいいことには、政治的考慮というものは、あまりやらんでいいんです。法理論を主にして、合理的に説明すれば、枢密院は通るということでした。」

 

 このように現在とは異なり、法制局のチェック機関が存在していました。

 

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