日考塾〜憲法とは即ち歴史である

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占領下の内閣法制局は何をしていたか

 昭和20年9月2日の降伏文書調印によって、日本は連合国の占領管理下に入りました。いわゆる占領時代の到来です。その占領時代において日本はやりたい放題やられましたが、当時の法制局も同様でした。

 

 まず法律案の国会提出や勅令や政令の制定についても、GHQの了解が必要となり、事柄によって細かく干渉を受けることが少なくありませんでした。通例では審議前に予備審査を行うことにもなっていますが、GHQが了解を得たものに修正を行ったりすることで心証を悪くすることもありました。また政府提案の法律案についても形式的実質的な影響を及ぼす役割を果たしているところや、法律の解釈でGHQに盾突くこともあったため、1947年9月16日付けの内閣総理大臣宛ての書簡において、内務省とともに法制局の解体という問題が出ることになり、解体の憂き目となりました。

 

 1947年9月16日付け内閣総理大臣宛てのマッカーサー書簡で、「政府の能率と経済の見地から,現在の内閣法制局はこれを廃止することができるであろう」という方針が示され、12月17日公布の法務庁設置法によって、法制局は司法省と合体して法務庁となりました。占領下においては、憲法について、とくにマッカーサー草案から、今日のような条文内容に関わったり、その他の関係法令についての整備も必要になるため、1946年3月12日の内閣に臨時法制調査会を設けることが閣議によって決まりましたが、総選挙があったため7月3日に臨時法制調査会官制が公布され、会長を総理大臣、副会長を金森憲法担当国務大臣として、法制局長官が幹事長として兼務や法制局次長ら50人の委員からなる大規模なものでした。

 

 GHQ民政局は1945年9月から3年間の占領行政についての膨大な報告書を残しました。その中で戦前の法制局について次のように記述している。
「法制局は表面上は内閣の法律顧問および法令の起草者であったにもかかわらず、それは長年の官僚的実践と慣例のなかで、単に形式や言葉づかいを変えるのみならず、様々な官庁から上がってくる法令案を法制局自身の政策観に順応するように、その実質を変えてしまう力をふるっていたのである。」
(2)Political Reorientation of Japan September 1945 to September 1948,Report of GOVERNMENT SECTION Supreme Commander for the Allied Powers,(Washington D.C.,U.S.Government Printing Office,1949),p.168。

 

 法制局解体の理由について直接触れたものは、あまり見当たらないが、次のようなものがあります。
○佐藤達夫「法制局あれこれ」法律のひろば(昭和二七年一一月号)二一頁
「当時のわれわれの議論は、あくまでも法律論の枠内にとどまっていたにかかわらず、先方では法律論を武器として占領政策に反抗するものと誤解していたらしい。昭和二十三年の法制局解散命令もこのような処にその原因があつたと思われる。」
O高辻正己「内閣法制局のあらまし−再建二〇周年に寄せて−」時の法令(昭和四七年八月三日号)三七頁
「当時の法制局が、総司令部に対してもときに法理を楯に譲らなかったことが、災いしたのであろう。」

 

 1948年に法務庁設置法が制定され、これは今日の法務省になりますが、法制局と司法省が合体したものになり、内閣から離れることになりました。またGHQ政治部のホイットニー准将は法制局長官が法務庁法制長官としての任命は例外とするが、職員については法務庁に転用してはならないと厳命しました。その後1949年に法務庁を法務府へと改組し、法制意見長官というものが置かれることになります。1952年にはその法務府を解体し、法務省と法制局が分かれ、1962年には、衆参両院に法制局が置かれていたため、紛らわしさもあることから内閣法制局と改称されました。

 

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