日本の憲法の1つである立憲政体樹立の詔書、どのような内容なのか

 

立憲政体樹立の詔

明治の基本方針である五箇条の御誓文が出され、改革を断行していました。

 

しかし中々思うように改革が進みません。

 

ここでは、改革の過渡期の中制定された、立憲政体樹立の詔書についてご紹介します。

 

 

立憲政体樹立の詔書とは

成立に至る背景

明治元(1868)年3月14日(4月6日)に明治天皇が布告した五箇条の御誓文によって、明治新政府の基本方針が出されました。
その後、太政官制を敷き、ヨーロッパのような政治体制の構築に模索をしていました。

 

明治の元勲の1人である木戸孝允は、明治6(1873)年7月に「憲法制定意見書」を朝廷に上奏します。
そこでは、憲法典を持つことの意味を述べています。

 

同じく明治の元勲である大久保利通は、、明治6(1873)年11月に「大久保参議起草政体に関する意見書」を出して、立憲政体の構想を述べます。

 

どのように成立したのか

明治8(1875)年2月11日に明治新政府の大久保利通、伊藤博文や井上馨は、在野の木戸孝允を大阪会議に招待します。
その会議に板垣退助も加わります。

 

その会議では、政治体制の改革として立憲政体樹立、三権分立、二院制議会確立の合意が成立します。
そして3月に木戸孝允や板垣退助が参議に復帰することになります。

 

大久保利通らは、大阪会議の合意事項に基づいた政体改革案として立憲政体の御布告案を作成し、太政大臣三条実美に提出したと言われます。

 

この立憲政体の御布告案は明治8(1875)4月14日に、明治天皇の詔書の形で「立憲政体樹立の詔書」発表されました。

 

 

立憲政体樹立の詔書はどのような内容なのか

全文

朕、即位の初首として群臣を会し、五事を以て神明に誓ひ、国是を定め、万民保全の道を求む。幸に祖宗の霊と群臣の力とに頼り、以て今日の小康を得たり。顧(かえりみる)に中興日浅く、内治の事当(まさ)に振作更張(しんさくこうちょう)すべき者少しとせず。朕、今誓文の意を拡充し、茲に元老院を設け以て立法の源を広め、大審院を置き以て審判の権を鞏(かた)くし、又地方官を召集し以て民情を通し公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶(とも)に其慶に頼んと欲す。汝衆庶或は旧に泥(なず)み故に慣るること莫(ま)く、又或は進むに軽く為すに急なること莫く、其れ能(よく)朕か旨を体して翼賛する所あれ。
 明治八年四月十四日
御名御璽

 

五箇条の御誓文からの連続

まず「五事を以て神明に誓い」とは、五箇条の御誓文を確認しているものです。
つまり、これは明治元(1868)年に建てられた基本方針が連続していることを意味します。

 

そして「誓文の意を拡充」とは、文字通り五箇条の御誓文の意味を拡充するということです。

 

今日の小康状態

明治8(1875)年の状況としては、対内的には士族反乱が続発するも、対外的にはロシアや清との国境が画定していく時期です。

 

内政状況としては、廃藩置県に次ぐ秩禄処分、太陽暦採用、徴兵制を手始めとした陸海軍創設などの諸改革を進めつつも、士族反乱が相次ぐ次期です。
2年後の明治10(1877)年になると西郷隆盛が担ぎ上げられ西南戦争が起こります。
この時期の西郷は自重しています。

 

対外的状況としは、日清修好条規と日朝修好条規が結ばれ、台湾出兵が敢行されます。
ただし、琉球処分はまだ5年先のことであり、清国との慢性的緊張が続いています。

 

そしてロシアとは、翌月に千島樺太交換条約が結ばれる見込みが立っている時期です。

 

中興日浅く

明治新政府は、維新を建武の中興に比しています。
そのため「中興」という言葉を使っています。

 

元老院、大審院、地方官の召集

元老院を設置し、立法府、大審院を設置し、司法府、地方官を招集し、地方官会議を開くことが明記されています。

 

現状に合わせて統治機構改革を行っていますが、ここで立憲政体を樹立するため、立法、司法、地方行政の制度を整えようとして、この詔書を出しています。

 

 

その後の展開

明治10(1877)年に西郷隆盛を首班にした西南戦争、それを最後に士族反乱は終結します。
しかし、その最中に、木戸孝允が病に倒れ、翌明治11(1878)年に紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺されてしまいます。

 

維新三傑と言われた明治の元勲達の死によって、次の世代である伊藤博文が中心となって日本を立憲政体の国家へと改革していくことになります。

 

 

この記事で学べること

いかがだったでしょうか。

 

明治8(1875)年は改革の過渡期となりますが、ヨーロッパのような近代国家、政治体制を実現するため、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、井上薫、板垣退助と改革を前に進めます。

 

なぜそこまで奮闘するのかといえば、日本が当時の清国のように西欧列強に飲み込まれていくことに憂いを持っていたからです。
だからこそ維新を成し遂げ、改革を行ってきました。

 

すべて、周りの目を気にして搾取されるのが嫌だから、本当の意味の独立を勝ち取るため奔走をしていました。

 

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