みんなで「寄せ鍋」をしていた縄文時代、どのような生活をしていたのか

 

火焔型土器

はじめに

 

縄文時代は縄文式土器を使う文化があったことから、そのように呼ばれています。
ここでは、縄文時代の生活についてご紹介します。

 

 


 

縄文時代

 

縄文時代は、約1万年前頃の更新世末期から、氷河期が終わり、完新世になった頃です。
世界史においては、新石器時代に該当します。

 

完新世になると地球の気候が温暖化して海面が上昇し、これによって現在の形に近い日本列島が形成されることになりました。

 

この時期にマンモスやナウマンゾウなどの大型動物が絶滅し、植物が広がるようになります。

 

縄文時代の生活

 

道具

縄文時代の頃の人は、石を打ち砕いて作られた石器に磨きかけてなめらかに仕上げた磨製石器が使われていました。
また土器や弓矢を使って生活をしています。

 

磨製石器の種類として、
石鏃(せきぞく):矢の先端部として使用します。
石匙(いしさじ):動物の皮を剥ぐ際に使用します。
磨石(すりいし)と石皿(いしざら):栗やクルミなど固い木の実をつぶすために使用します。
石錘(せきすい):網の重りとして使用します。
があります。

 

縄文土器は、縄目模様、低温で焼いているため黒褐色、厚手だが脆いという特徴を持っており、この縄文土器を使って、採取した食料の加工を行ったりしていました。
また祭祀としても用いられています。

 

弓矢は、鹿や猪などの小型で素早い動物を捉えるために使用しました。
その他、魚を獲るために、骨角器(こっかくき)という動物の骨や角で作った銛や釣針などを使用しています。

 

住居

縄文時代の住居は、地面を円形や方形に堀り窪めてその中に柱を建て梁などを繋ぎ合わせて家の骨格を作り、屋根をして茅葺き、樹皮葺き、土葺きの屋根にした建物として竪穴式住居で生活していました。

 

また数軒の竪穴式住居で集落を形成しており、大規模な集落としては、青森県の三内丸山遺跡があります。

 

食事

食生活の中心は「寄せ鍋」です。

 

石蒸し料理とか、石皿で木の実やエゴマの種を混ぜてクッキーのように焼いて食べています。
また、食材から出たダシと塩分、キハダ(ミカン科の落葉高木)やサンショウの実などの香辛料もありました。

 

貝塚

明治10(1877)年にアメリカ人の動物学者のエドワード・S・モースが東京で大森貝塚を発見しました。
それによって漁労が発達していたことがここで伺えます。

 

交易

交易が盛んに行われていることが確認されており、石器の材料である黒曜石やサヌカイト(讃岐石)、ひすい(硬玉)が交易されていました。

 

文化

この時代の信仰として、万物に霊魂が存在するという精霊信仰(アニミズム)がありました。

 

文化面では、主に女性をかたどった土偶や男性自身をかたどった石棒があります。

 

大人への通貨儀礼として歯を抜く、抜歯の風習があり、その歯を抜く痛みに耐えることで大人の仲間入りをすることが出来ました。

 

そして死者を埋葬するときに死体の手足をかがめて埋葬する屈葬を行っており、これは霊の復活を防ぐためと説明されることが多いです。

 

皇室の原型

 

精霊信仰は神道の原点

日本人は、大自然や万物とともに生きるという発想は、この時代からあったといえます。

 

日本の国土は多くの山々が聳え立ち、流れる川があり、時には恵みとして時には脅威となる自然豊かな国土です。
その国土で日本人の特性が培われてきました。

 

日本人の特性として、他者を敬い、自然と調和しながら生きる精神性や多様な価値観を包み込む精神性、技術の洗練と改良を繰り返す粘り強さ、これらの特性を持っています。

 

万物に精霊や神が宿ると信じ、大自然や万物を神に見立てて信仰をします。
つまり精霊信仰(アニミズム)です。

 

いわば大自然や万物を神として、その神の猛威の前に、人間は小さな存在であることが、この時代からその発想がありました。
そして祟りを恐れるからこそ祀るようになります。

 

つまりこの精霊信仰(アニミズム)には、神道の原点があったといえます。

 

日本人が定義する神

日本人は神をどのように考えてきたのでしょうか。

 

これは国学者本居宣長の古事記伝において、日本の神を定義づける記述があります。

 

 「凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みすみたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり、【すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさし)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり」

 

この定義でいうと、大自然や万物、優れていること、尊きこと、善きことだけではなく、悪しきこと、妖しきことも神に属するとなります。

 

明らかに西洋でいうところの「GOD」とは意味が異なるといえます。

 

縄文王権

縄文中期頃の集落になると、大規模なものとして青森県にある三内丸山遺跡が発見されています。
これは集落の長がやがて周辺の集落をまとめ地域の長になり、やがて王になっていたのではないかと思えます。

 

また現在「国宝」と指定されたヴィーナス土偶、合掌土偶、仮面の女神、中空土偶等などは、副葬品として使われた可能性もあります。

 

三内丸山遺跡は、平成4(1992)年に、県総合運動公園拡張事業の野球場建設にともない、発掘調査が始まりました。
江戸時代前半から、「ここには何かある」と、気付かれてはいました。

 

実際に発掘を開始すると、厚さ2メートル以上の遺物包含層が出現しました。
発掘の結果、今から5500年から4000年前に至る1500年の間、人が住み続けていたことが分かりました。

 

三内丸山遺跡の特徴としては、遺跡の推定範囲が約35ヘクタール、約1500年の継続、出土遺物の膨大さがあります。
ここに、何らかの集落の集合体としての地域の長がいたのではないかと推察出来ます。

 

縄文時代から弥生時代へ

 

殷王朝末期

世界で初めて稲作技術が確立したのは、長江流域です。

 

それが縄文時代から弥生時代にかけて伝わってきましたた。
つまり長江流域にいた稲作技術を有した人達が日本列島に移動してきたのではないかといえます。

 

この時期の中華は、殷王朝末期です。
殷王朝は、最後の王である紂(ちゅう)王の時代です。

 

紂王は、暴君で知られる王で、酒池肉林の名で知られる放蕩や暴政を行っていたと言われています。
実際に暴君だったかは怪しいところもあり、殷から周に天命が変わったことを示すために意図的に悪く描かれている可能性もあります。

 

「史記」において、紂王の圧政からのちに周を建てる姫発(きはつ)(武王)が諸侯をまとめ、殷と決戦を挑むことになりました。
それが紀元前1046年の牧野の戦いです。

 

この戦いで、殷軍は壊滅し、殷王朝が倒れました。
そして周王朝が黄河流域を統一します。

 

おそらくこの時期に、王朝交代に伴う民族移動があったのではないかと考えられます。
つまり殷王朝が倒れたことによって、諸侯や民が九州などの地域に移動しということです。

 

縄文時代年表

 

紀元前約14000〜13000年

草創期

土器や弓矢の使用が始まり、定住化が進み、ムラが出現する
紀元前約9000年

早期

気候の温暖化が進み海水面が上昇する(縄文海進)

貝塚が出現する

紀元前約5000年

前期

円筒土器文化の成立

集落の数が増え、地域を代表するような拠点集落が出現する
漆の利用技術が発達する

紀元前約3000年

中期

大規模な拠点集落が発達する

ヒスイや黒曜石等の交易が盛んとなる

紀元前約2000年

後期

中期にみられた大規模な拠点集落は減少し、集落の拡散下、分散化が進む

環状列石が出現する

紀元前1046年

(紀元前1027年の可能性あり)

牧野の戦い(殷)
紀元前約1000〜400年

晩期

亀ヶ岡文化が栄える

遮光器土偶や土面など祭祀の道具が多く作られ、装身具類も多様となる
北部九州に稲作が伝来する

 

この記事で学べること

 

記事のまとめ

いかがだったでしょうか。

 

縄文時代の生活の営みは、その後や現在に至るまでの日本の原点を表すものがいくつかあります。

 

とくに大自然への恐れや万物に神が宿っているという精霊信仰(アニミズム)は、神道にも繋がります。

 

考えてほしいこと

この記事から考えてほしいことを質問します。

 

今の自分がある原点となったきっかけは何ですか?

 
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