弥生時代に日本の伝統の基本が出来ました。要点に絞ってわかりやすく解説していきます!

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弥生時代に日本の伝統の基本が出来ました。要点に絞ってわかりやすく解説していきます!

 

縄文時代と弥生時代の違いは、弥生式土器を使うことそして稲作が始まったことから時代の区分が変わります。

 

ここでは、弥生時代の要点をご紹介していきます。

 

 

 

 

弥生時代

弥生時代について

弥生時代が縄文時代と異なる特徴として、金属器、弥生土器、農耕や水稲耕作があります。

 

金属器は、青銅器と鉄を使ったもので、日本に伝来されました。
青銅とは、銅と錫を合わせたもので、銅鐸、銅剣、銅矛などが発見されています。青銅器は、当初は実用道具として使われていましたが次第に鉄器に代わっていき、青銅器は、祭器として使われるようになりました。

 

弥生土器は、無紋で高温で焼くため赤褐色、そして薄手ですが硬い特徴となっています。

 

農耕については、初期の農耕としては、湿田に種を撒く方法でしたが、後期になると乾田が開発されました。
収穫時は、石包丁の磨製石器を使って刈り取りを行っていました。
また農産物の貯蔵として高床式倉庫に保管されています。

 

遺跡としては静岡県にある登呂遺跡や大規模集落があった吉野ケ里遺跡が有名です。

 

縄文時代との違い

縄文時代との違いとしては、弥生時代の特徴以外には、小さな国々が各地に成立し、身分の差が発生するようになりました。
埋葬方法も変わります。
屈葬から死者の両脚を伸ばした状態で埋葬する伸展葬(しんてんそう)に変わりました。

 

また一般の人は、穴の中に遺体をいれて埋葬する土壙墓(どこうぼ)や土器の中に入れて埋葬する甕棺墓(かめかんぼ)などがあります。
地域の代表者などの墓になると、土盛りした大規模な墓を墳丘墓(ふんきゅうぼ)といい、これらはのちの古墳へと繋がっていきます。

 

 

倭国

光武帝が印綬を与える

後漢書東夷伝、建武中元2(57)年、倭の奴国の使者が派遣され、朝貢をしたため、光武帝から印綬を与えられます。

 

これは、1784年に福岡県志賀島で金印が発見され、そこには「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれています。

 

倭国王帥升

後漢書東夷伝、永初元(107)年、倭国王帥升(すいしょう)が安帝に奴隷160人を献上したという記述があります。

 

倭国大乱

後漢書東夷伝、桓帝と霊帝の治世の間(146年〜189年)に、倭国が大いに乱れて、何年も主がいませんでした。
そこに鬼神道を用いる卑弥呼という名の一人の女子がいて、王に立てました。

 

東アジアの動きとして、後漢では、桓帝と霊帝の治世の間に周辺の羌(きょう)族反乱の鎮圧や鮮卑(せんぴ)族が北辺に侵攻するなど脅かされていました。また国内では、黄巾の乱が起こり、各地が乱れますが中央政府では、宦官が跋扈し、なすすべもない状態でした。その後黄巾の乱は鎮圧されますが、様々な武将が群雄割拠し、三国志の時代へと繋がります。
また東方経路の窓口になる楽浪郡は、南満洲や朝鮮を規制する力がなくなり、自立の勢いが高まることになりました。

 

ここで倭国大乱が起きたのは、後漢が後ろ盾になり、その権威をもって政治を行っていたところ、後漢の衰退によってその権威が失墜したことが原因ではないかと言われています。

 

邪馬台国と卑弥呼

邪馬台国は、「やまたいこく」と読まれていますが、現在の奈良県、福岡県、熊本県をはじめ全国に「やまと」(大和、山門、山戸、山都など)という地名があるとおり、「邪馬台」も普通名詞として「やまと」と読むのが適切です。

 

この邪馬台国がどこにあったのかというのは、九州説と畿内説があり、未だに確定はしていませんが、近年では、最初の王宮である纏向(まきむく)遺跡の発掘調査の進展や、また最初の倭王権盟主墳である箸墓古墳の年代を卑弥呼の次の世代くらいに遡らせるようになったことによって、畿内説が優勢となってきています。

 

卑弥呼は通常、「ひみこ」と読まれますが、「ひめみこ(女王・姫命など)」という尊称が「卑弥呼」と表記されたと考えられています。この卑弥呼が、王になったことで倭国大乱が収まることになりました。

 

魏志倭人伝には、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送り、朝貢した記述があります。
その時に、魏の皇帝曹叡から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚が与えられます。

 

卑弥呼の比定として様々ありますが、孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)ではないかと考えています。

 

それは、崇神天皇に神意を伝える巫女の役割をしていることや、箸墓古墳が邪馬台国の候補地である纏向遺跡の中にあり、その古墳が、放射性炭素年代測定によると240〜260年という結果が出ました。
それによって卑弥呼の没年である248年から多少の前後はあるもののそれに近いことがわかりました。

 

卑弥呼の後継者台与

卑弥呼の死後は卑弥呼の宗女であった台与を女王としました。

 

台与は、「とよ」または「いよ」と読まれますが、「とよ」と読むのが通説となっています。
台与の比定として、崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命ではないかと考えています。

 

こちらは卑弥呼を倭迹迹日百襲媛命と比定することが前提であることと、天照大神を祭る伊勢神宮初代斎宮であることからになります。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

この時代の年表は下記から確認して下さい。

 

弥生時代の年表

 
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