実在性に乏しいといわれる孝霊天皇、どこまでわかっているのか

 

孝霊天皇

孝霊天皇は、欠史八代の1人で実在性に乏しいといわれています。
それは、『古事記』や『日本書紀』にも事績らしい記述がされていないことが原因です。

 

ここでは、孝霊天皇のわかっている範囲の人物像についてご紹介します。

 

 

 

孝霊天皇という人物

孝霊天皇の「孝霊」は、漢風諡号として後に贈られた諡(おくりな)です。

 

そのため、
『日本書紀』では、日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
『古事記』では、大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)
といいます。
これを和風諡号として漢風諡号と区別されます。

 

誕生

孝安天皇の誕生について、『日本書紀』と『古事記』で異なっています。

 

『日本書紀』では、孝昭天皇と世襲足媛(よそたらしひめ)との間に孝昭天皇49年の年に誕生しました。
 世襲足媛は、尾張連の遠祖の瀛津世襲(おきつよそ)の妹です。

 

『古事記』では、孝昭天皇と余曾多本毘売命(よそたほびめのみこと)との間に誕生しています。
 余曾多本毘売命は、尾張連の遠祖の奥津余曾(おきつよそ)の妹です。

 

皇太子

孝安天皇は、孝昭天皇68年の年に皇太子となりました。

 

即位

孝安天皇は、孝昭天皇83年の年に、父である孝昭天皇の崩御に伴って翌孝安天皇元年に即位します。
そして都を、掖上池心宮(わきのかみけごころのみや)から室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)に移しました。

 

 

治世

皇后

孝安天皇26年に、皇后を迎えます。
これも「『日本書紀』と『古事記』で異なっています。

 

『日本書紀』では、孝安天皇の兄の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の娘である押媛(おしひめ)を皇后に迎えます。
 ただし、『日本書紀』の異説として磯城県主葉江(しきのあがたぬしはえ)の娘の長媛(ながひめ)、また別の異説として十市県主五十坂彦(といちのあがたぬしのいさかひこ)の娘の五十坂媛(いさかひめ)があります。

 

『古事記』では、孝安天皇の兄の天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)の娘である忍鹿比売命(おしかひめ)を皇后に迎えています。

 

皇子

孝安天皇の皇子が『日本書紀』と『古事記』で異なります。

 

第1皇子は、『古事記』では大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)がいます。
第2皇子は、『日本書紀』では大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)ですが、『古事記』では大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)に代わっています。
これが後の孝霊天皇です。
また『日本書紀』には、大日本根子彦太瓊尊の記載しかないため、皇子が1人となります。

 

崩御

孝安天皇102年に崩御し、陵墓は現在、奈良県御所市大字玉手にある玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)に擬されています。

 

 

孝安天皇の略歴

日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)(『日本書紀』)
大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)(『古事記』)

 

孝昭天皇

 

世襲足媛(よそたらしひめ)(『日本書紀』)
余曾多本毘売命(よそたほびめのみこと)(『古事記』)

 

略歴

誕生:孝昭天皇49年
立太子:孝昭天皇68年1月
即位:孝安天皇元年1月
崩御:孝安天皇102年1月

 

后妃・皇子女

皇后:
押媛(おしひめ)(『日本書紀』)
忍鹿比売命(おしかひめ)(『古事記』)
 大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)(『古事記』)
 大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)(『日本書紀』)、大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)(『古事記』)

 

玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)

 

年譜

孝昭天皇49年 誕生
孝昭天皇68年 立太子
孝安天皇元年 即位
孝安天皇2年 室秋津島宮に遷都
孝安天皇26年 押媛を立后
孝安天皇76年 大日本根子彦太瓊尊を立太子
孝安天皇102年 崩御

 

 

この記事で学べること

いかがだったでしょうか。

 

事績らしきものはまったくなく、ただ略歴を並べたものしかありません。

 

この記事のおすすめ本

令和新修 歴代天皇・年号事典(米田 雄介)

歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(中公新書)(笠原 英彦)


 
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