実在性に乏しいといわれる綏靖天皇、そこには重要な出来事があった

 

綏靖天皇

綏靖天皇は、欠史八代の1人で実在性に乏しいといわれています。
しかし、綏靖天皇が即位する前に乱が起きたことや重要な先例が出来ました。

 

ここでは、綏靖天皇のわかっている範囲の人物像についてご紹介します。

 

 

 

綏靖天皇という人物

綏靖天皇の「綏靖」は、漢風諡号として後に贈られた諡(おくりな)です。

 

そのため、
『日本書紀』では、神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)
『古事記』では、神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと)
といいます。

 

また、『古事記』において手研耳命(たぎしみみのみこと)を殺害したことによって、建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)という別の名が記されています。

 

誕生

綏靖天皇の誕生について、『日本書紀』と『古事記』で異なっています。

 

『日本書紀』では、神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)との間の第3子で、神武天皇29年の年に誕生しました。
 媛蹈鞴五十鈴媛は、事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘です。
『古事記』では、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)に相当します。

 

兄に神八井耳命(かんやいみみのみこと)と、『日本書紀』に記述はなく『古事記』には、その上の兄に日子八井命(ひこやいのみこと)がいました。
 兄の神八井耳命は、多氏(おおし)の祖、日子八井命は、茨田連、手嶋連の祖となります。

 

神武天皇には東征以前に、日向にいた頃に吾平津媛(あひらつひめ)という妻がいて、手研耳命(たぎしみみのみこと)(多芸志美美『古事記』)と『古事記』に記載がある岐須美美命(きすみみのみこと)の2人の子がいました。

 

皇太子

綏靖天皇は、神武天皇42年の年に皇太子となりました。

 

 

手研耳の反逆

異母兄手研耳命

すでに記載したとおり、手研耳命は、日子八井命、神八井耳命、神渟名川耳命とは腹違いの兄に当たります。

 

手研耳命は、神武天皇が東征する前には生まれていたこともあり、神武天皇に従って東征に同行します。
そして神武天皇が崩御したのちに、その皇后である媛蹈鞴五十鈴媛を妻に迎えています。

 

義理の母との婚姻はこの時代では珍しい事柄ではありません。

 

野心

手研耳命は、年長であることから政務経験があり、そのこともあって自由に任されていましたが、仁義に背くような人でした。
そこで、神武天皇の諒闇つまり服喪の期間中に、自身の権力を不動のものにするため、弟の殺害を考えるようになります。

 

これが神武天皇崩御より3年後のことです。

 

計画の露見

『古事記』には、手研耳命の妻であるが、2人の母親でもある媛蹈鞴五十鈴媛は、そのことを憂い歌を通じて知らせることにしました。

 

その歌が、

 

 狭井河よ 雲たちわたり 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす
 (狭井川の方から雲がわきおこり、畝傍山の木の葉がさやさやと鳴り騒いでいる。風が吹こうとしているのだ)

 

と警戒を促します。

 

反撃の準備

神武天皇の山陵をつくることが終わると、弓部稚彦(ゆげのわかひこ、弓削部稚彦)に弓を造らせ、倭鍜部天津真浦(やまとのかぬちあまつまのみこと)に鹿を射る鏃(やじり)を造らせ、矢部(やはぎべ)に箭(や)を造らせました。

 

弓矢が完成すると、神渟名川耳命は手研耳命を射殺そうと思います。

 

急襲

手研耳命は片丘の大室(おおむろ)の中にいて、一人で床にふせっていました。

 

2人は、その好機を逃すまいとして、その家の戸を弟である神渟名川耳命が開けておくから、兄である神八井耳命が射るように話します。

 

しかし神八井耳命はいざその場になると手足が震えて矢を射ることが出来なくなります。
そのとき神渟名川耳命が兄の持っていた弓矢を引き取って、手研耳命を一発目で胸に命中させ、二発目は背中に当て射殺しました。

 

即位

神八井耳命は自分の失態を恥じて、弟こそ皇位にふさわしいとして言われます。
重要な部分であるため『古事記』と『日本書紀』の両方をのせておきます。

 

『古事記』
 吾は仇(あた)を殺すこと能わず。汝命(いましみこと)既に仇を得殺しらまいき。故、吾は兄なれども上(かみ、天皇)となるべからず。ここをもちて汝命上となりて、天の下治らしめせ。僕は汝命を扶(たす)けて、忌人(いわいびと 神祇を行う人)となりて仕えて奉らむ。

 

『日本書紀』
 神渟名川耳尊に譲りて曰さく、吾れ是れ乃兄(いましのこのかみ)なれども、懦(つたなく)弱くて不能致果(いしさなし)。今汝特挺神武(すぐれたけくて)、自ら元悪(あだ)を誅(つみ)なう。宣哉嗚乎(うべなるかな)、汝の天位(あまつひつぎ)を光臨(しろしめ)し、以て皇祖の業を承けむこと。吾は当に汝の輔と為て、神祇(あまつやしろくにつやしろ)を泰典(つかさどりまつ)らむ。

 

これによって、皇位は弟の神渟名川耳命、神祇は兄の神八井耳命と政と祭を分ける慣習の初見といえます。

 

そして綏靖天皇は、神武天皇76年の崩御から3年後に即位しました。
都は、橿原宮から葛城高丘宮(かずらきたかおかのみや)に移します。

 

 

治世

皇后

綏靖天皇元年に、皇后を迎えます。
これも『日本書紀』と『古事記』で異なっています。

 

『日本書紀』では、事代主神の娘で、綏靖天皇の叔母である五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)を皇后に迎えます。
 ただし、『日本書紀』第1の一書では磯城県主の娘である川派媛(かわまたひめ)といい、『日本書紀』第2の一書では春日県主大日諸(かすがのあがたぬしのおおひもろ)の娘である糸織媛(いとおりひめ)と記述されている。

 

『古事記』では、師木県主(しきのあがたぬし)の祖先の家系である河俣毘売(かわまたびめ)を皇后に迎えています。

 

皇子

皇子はのちの安寧天皇です。

 

そのため、
『日本書紀』では、磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)
『古事記』では、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)
です。

 

崩御

綏靖天皇33年に崩御し、陵墓は現在、奈良県橿原市四条町にある桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)に擬されています。

 

 

綏靖天皇の略歴

神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)(『日本書紀』)
神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと)(『古事記』)

 

神武天皇

 

媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)

 

略歴

誕生:神武天皇29年
立太子:神武天皇42年1月3日
即位:綏靖天皇元年1月8日
崩御:綏靖天皇33年5月10日

 

后妃・皇子女

皇后:
五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)(『日本書紀』)
河俣毘売(かわまたびめ)(『古事記』)
 磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)(『日本書紀』)、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)

 

桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)

 

年譜

神武天皇29年 誕生
神武天皇42年 立太子
神武天皇76年の3年後 手研耳の反逆
綏靖天皇元年 即位

葛城高丘宮に遷都
五十鈴依媛命を立后

綏靖天皇21年 磯城津彦玉手看尊を立太子
綏靖天皇33年 崩御

 

 

この記事で学べること

いかがだったでしょうか。

 

この記事のおすすめ本

令和新修 歴代天皇・年号事典(米田 雄介)

歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(中公新書)(笠原 英彦)


 
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