幕府によって制定された武家法は、どのように成立しどのような位置づけなのか

 

徳川家康

鎌倉時代を経て武家法が成立することになります。

 

この時期の法体系として三系統ありました。

 

ここでは、三系統ある法体系のうち、武家法についてご紹介していきます。

 

 

 

 

三法系鼎立時代

三種の法体系とは

鎌倉幕府が成立してから建武中興に至るまでの123年間の法は三系統に分類されます。

 

この時代公家、武家、寺社家3勢力が、国政上に権威や権力を持ち影響力を与えていました。
これを権門勢家といいます。

 

権門勢家の法体系

権門勢家の法体系は次のとおりです。

 

第1は、公家です。
主に、天皇家や摂関家を始めとする貴族となります。

 

この勢力の法は、律令制時代に作られた律令法系で、朝廷直轄の土地や人民に対して適用されます。

 

第2は、武家です。
主に、源氏や平氏などの武家の棟梁を始めとする武士となります。

 

この勢力の法は、鎌倉幕府において御家人の制度を根幹とした組織が作った式目法系で、幕府支配の土地や人民に対して適用されます。

 

第3は、寺社家です。
主に、奈良の興福寺の南都、比叡山延暦寺の北嶺を始めとする寺社で、神仏習合であるため、社家との区別がありません。

 

朝廷に発言しうるだけの影響力を持っていますが、政権を掌握することはありませんでした。

 

この勢力の法は、荘園法系で、寺社領に対して適用されます。

 

これら三つ権門勢家である公家、武家、寺社家による三法系が鼎立している法体系であり相互に干渉しないことが特徴です。

 

ただこの時代でも、それらの成文法は慣習法に対する補充的存在であるに過ぎませんでした。

 

 

御成敗式目について

御成敗式目とは

鎌倉時代では、有名な御成敗式目が、執権北条泰時が中心となり、貞永元(1232)年8月に制定されました。
これは頼朝以来の慣例を基本として作成されたもので、幕府における基本法です。

 

内容としては、守護地頭や御家人等に関する内容、財産や相続手続、訴訟に関する内容等になります。
また、御成敗式目の中に「右任右大将家御時之例」とあるのは、頼朝以来の慣例法による意味です。

 

御成敗式目は、所領に関する規定が多く、それは民事訴訟の公正な裁断に幕府が誠意を有したことの表れとなります。

 

有名な松尾芭蕉の句に「明月の出づるや五十一箇条」(めいげつのいづるやごじゅういちかじょう)というものがあります。
これは、御成敗式目が制定されたことによっては、世の中が明るくなったことを表現しています。

 

また賛否がありますが、御成敗式目の全51条は十七条憲法を3倍にした数の条文ともいわれています。

 

御成敗式目制定の精神

御成敗式目の施行については、三善康連(みよしのやすつら)に謀り、評定衆に諮問してその同意を得ています。
また法文の末尾には当時の武士の間に行われていた宣誓の様式に倣い、遵守を天地神明に誓う起請文を附しており、執権北条泰時、一門の長老北条時房、その他に11名の評定衆が連署しています。

 

改正については、必要に応じて将軍御教書の形式の下に、追加を行うことになります。

 

御成敗式目という名称は、制定の中心となった北条泰時の独創によるものですが、その淵源は十七条憲法第9条「善悪成敗、要在于信」に基づいていると考えられています。

 

成敗とは、成すべきを成し敗るべきを敗るの意味であり、広義には政治を、狭義には裁判を、さらに狭義の俗語としては懲罰することを意味します。

 

鎌倉幕府滅亡後

鎌倉幕府が滅亡した後も、足利尊氏は御成敗式目を改廃しませんでした。
そして、建武式目や建武以来追加の制定も行っています。

 

建武式目は、足利尊氏の施政上の参考に鎌倉評定衆の遺老二階堂道昭に諮問したものに対しての答申書です。

 

建武以来追加とは、建武以降の御成敗式目への追加となります。

 

公家などの京都における律令法系は、ほとんど変わらず運用されます。

 

荘園法系は、寺社などが一つの法系として形成するに至ったのは、養老律令にある僧尼令です。
この令によって、寺院僧尼の自治を認めたことから始まります。

 

これによって独立的地位を確立することになり、別の法体系として形成されることになりました。

 

戦国時代に入ると各々の大名がそれぞれ式目を作ることになります。
しかし法の内容としては御成敗式目に倣うものでした。

 

 

江戸の武家法について

武家諸法度

徳川家康は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開くことになります。
そこで大名の取り締まりに関する法令として、武家諸法度を慶長20(1615)年7月に第2代将軍徳川秀忠が発布します。
その後5回改正が行われています。

 

禁中並公家諸法度

江戸時代で特筆すべき法令としては、朝廷とくに天皇に向けて出した禁中並公家諸法度の制定です。

 

この法文は17条になっており、皇室典範の性格を兼ね備えています。
鎌倉時代以来、朝廷に対して法的に不干渉としていましたが、皇室のことに関して具体的かつ細部に規範を立てることになりました。

 

禁中並公家諸法度の制定は、慶長20(1615)年に、二条城にて大御所の徳川家康、二代将軍徳川秀忠、前関白二条昭実の3名の連署をもって公布されました。
徳川家康は、天皇に頼ることなく天下統一を成し遂げたことから、相対的に朝廷の権威が弱まることになりました。
ようは、天皇の政治介入を禁止し、学問や伝統的な芸能だけをやることを強要したといえます。

 

 第一条 天子諸芸能の事、第一に御学問なり。学ばずんば則ち古道に明らかならず。而して能く政太平を致す者未だ之有らざるなりとは、貞観政要(じょうがんせいよう)の明文なり。寛平の遺誡(かんぴょうのゆいかい)には経史を窮(きわ)めずといえども、群書治要(ぐんしょちよう)を誦習すべしと云々。和歌は光孝天皇より未だ絶えず、綺語(きご)たりといえども、我が国の習俗なり。棄て置くべからずと云々、「禁秘抄」(きんぴしょう)に載せる所は御習学専要に候事。

 

禁秘抄は、順徳天皇が書いた有職故実の解説書です。
有職故実とは、朝廷の行事や法令、習慣などを集めた先例集になります。

 

天皇になるための帝王学として、これら学問や諸芸能は学んでいますが、それを成文化した内容です。

 

第2条では、これまでの慣例として成り立っていた宮中席次を変えました。

 

 第二条 三公の下に親王。その故は右大臣不比等舎人親王の上に着く。殊に舎人親王、仲野親王は贈太政大臣、穂積親王は准右大臣、これ皆一品親王なり。以後大臣を贈らるる時は、三公の下勿論たるべき歟。親王の次は前官の大臣。三公在官の内は親王の上たりといえども辞表の後は次座たるべし。その次は諸親王、ただし儲君(ちょくん)は格別なり。前官の大臣、関白職再任の時は、摂家の内位次たるべき事。

 

親王を三公つまり太政大臣、左右大臣の下に置いたことです。
他の内容には、女子は家督相続の資格がないこと、関白伝奏の権能に関することなどを定めたものになります。

 

諸宗寺院法度

寛文5(1665)年7月に江戸幕府が仏教の諸宗派、寺院、僧侶を統制することを目的として、諸宗寺院法度が制定されます。

 

諸宗寺院としてまとまったのは、徳川家綱の時代で、それ以前に、各宗の僧に対して制定されていました。

 

それぞれ、
曹洞宗法度 慶長17(1612)年
勅許紫衣之法度 慶長18(1613)年
五山十刹諸山法度 元和元(1615)年
妙心寺法度 元和元(1615)年
永平寺法度 元和元(1615)年
大徳寺法度 元和元(1615)年
総持寺法度 元和元(1615)年

 

また寺院だけではなく、神社や神職を対象として出された諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)というものも寛文5(1665)年に制定されました。
この法度は、神社を統制するためのもので、そして吉田神道を正統としました。

 

鎌倉時代以来、寺院や神社は朝廷勢力と武家勢力と並ぶ勢力の1つでした。
それが、徳川家康によって天下統一されたことによって、3勢力の中心に位置づけられることになり、公家や寺社家に対して法令を作ることが出来たと考えられます。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

武家法の成立と位置づけについてみてきました。

 

公家、武家、寺社家の勢力が拮抗している時代は、お互いに干渉しない法体系でした。

 

それが江戸時代で徳川家康になれば、徳川幕府中心の世として各勢力に対しての法令が作られることになりました。


 
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