内閣法制局長官OBと学者で構成する参与会という組織の全貌はどんなものなのか

    このエントリーをはてなブックマークに追加  

内閣法制局長官OBと学者で構成する参与会という組織の全貌はどんなものなのか

 

内閣法制局の参与会は、

 

内閣法制局長官でも恐れると言われてる組織です。

 

参与会がどのような組織でどのような性質があるかについてご紹介します。

 

 

 

 

内閣法制局参与会とは

参与会の設置

内閣法制局には、内閣法制局の顧問的立場にあたる参与会という組織があります。

 

参与会は、長官経験者や学会等の権威者が参与となり、その参与が一堂に会してある特定のテーマについて意見交換する会です。

 

重要な問題や複雑な問題について定期的に開かれ、意見聴取を行っています。

 

参与制度は、内閣法制局設置法上の根拠に基づくものではなく、またその他の法制上の根拠があるわけでもありません。

 

昭和34(1959)年度の予算要求をしました。

 

 「当局所掌の法律問題に関し法制局長官の諮問に答申させ、又は内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣等に対する法令の解釈に対する意見の回答、法律案・政令案の審査立案、条約案の審査に当たり、学界等の権威者より助言と協力を受けるために五人の参与を設置」

 

この要求が認められて、「参与」が誕生することになりました。

 

参与会の前身は何か

参与会が出来たのは戦後になってですが、戦前は違う制度がありました。
それは兼任参事官制度です。

 

兼任参事官制度とは、大学教授等の学識者を法制局参事官に兼任し、その意見を聴取することで、法制度の整備の充実や学界の協力を得ることを目的として作られていました。

 

法制局の所掌事務で、法制の基本となる事項は、学界や法曹界の深い法律的知識と高い識見を有する人達の意見を聴くことは、法制の民主化や複雑化から必要でした。

 

それは戦前も戦後も変わりありません。

 

そして戦後になると兼任参事官制度が廃止され、それに代わるものとして、参与制度が設けられ参与会が作られました。

 

 

参与会の役割

進行の仕方

参与会は、月に1回から2回、内閣法制局長官の公邸で行われます。
会議に先立ち、あらかじめ担当の部から提出された議題や関係資料を各参与に送付して、検討をお願いする形となります。

 

参与会の当日は、内閣法制局からは長官、次長、各部長、総務主幹、そして当日の議題説明者である参事官等が出席し、夕食を間に挟んで概ね3時間程度、議題についての意見交換を行います。

 

まず冒頭に、担当参事官等から議題に関する問題点や概略を説明した上で、司会者を設けない自由討論に入っていきます。

 

また、直接の議題となっていない事柄についても、その時々の問題についての憲見交換の場ともなります。

 

ここで現役の内閣法制局長官が過去の憲法解釈を少しでも変更すれば、参与会で長官OBが『何で俺たちの解釈を変えたのだ』とその場で言われることもあります。

 

そのため現役の長官にとっては胃が痛くなる会合という証言があるぐらい、頭が上がらない存在ともいえます。

 

異質なものを排除する参与会

歴代内閣法制局長官の中でも、第2次安倍政権が誕生したときに、駐仏大使から抜擢された小松一郎長官は異質な存在となりました。

 

それは内閣法制局長官になるには、財務省、法務省、総務省、経済産業省の4省の中で、総務主幹、第一部長、次長を経験したものが内閣法制局長官になることが出来るからです。

 

内閣法制局長官を敢えて言えば政治任用したのには理由があります。

 

それは、第1次安倍政権のときに、集団的自衛権の解釈変更を巡り、当時の内閣法制局長官だった宮ア礼壹をはじめとした7人の幹部が一斉に反対したことが要因でした。

 

その苦い経験から、集団的自衛権の解釈変更をするために小松一郎駐仏大使を内閣法制局長官にしました。

 

しかしそれは、内閣法制局にとって異質な存在にしか見えなかったのではないかと思います。

 

これは参与会においても同様です。

 

ある日のテーマでは「携帯電話のクーリングオフ」についてでしたが、目立った発言をしませんでした。
そのことから、「小松氏は議論についていけていないようだった」と振り返られています。

 

小松一郎は、外務省国際法局長だったこともあり、また国際法に関する著書もあります。
しかし国際法に詳しいのであって、国内法の専門的な部分の知識までは持っているわけではありません。

 

また内閣法制局が言うところの集団的自衛権に関しての一貫した解釈を変更させないために、参与会や内閣法制局は、抵抗したものと考えられます。

 

 

主な歴代参与

 

主な参与について、ご紹介しておきます。

 

参与 略歴 就任年数 その時の長官 その時の内閣
金森 徳次郎

法制局長官
国務大臣

昭和34(1959)年4月1日から同年6月16日 林 修三 第2次岸内閣
佐藤 達夫

法制局長官
人事院総裁

昭和34(1959)年4月1日から昭和49(1974)年9月12日

林 修三
高辻 正己
吉國 一郎

第2次岸内閣から
第2次田中内閣

田中 二郎

東京大学教授
最高裁判所判事

昭和34(1959)年4月1日から昭和39(1964)年1月16日

 

昭和48(1973)年4月1日から昭和56(1981)年1月16日

林 修三

 

吉國 一郎
真田 秀夫
角田 礼次郎

第2次岸内閣から
第3次池田内閣

 

第2次田中内閣から
鈴木内閣

?山 政道

東京大学教授
お茶の水女子大学学長

昭和34(1959)年6月1日から昭和55(1980)年5月15日

林 修三
高辻 正己
吉國 一郎
真田 秀夫
角田 礼次郎

第2次岸内閣から
第2次大平内閣

宮沢 俊義

東京大学教授
立教大学教授

昭和34(1959)年6月1日から昭和51(1976)年9月4日

林 修三
高辻 正己
吉國 一郎
真田 秀夫

第2次岸内閣から
三木内閣

西村 熊雄

駐仏大使
原子力委員会委員

昭和34(1959)年7月1日から昭和55(1980)年11月12日

林 修三
高辻 正己
吉國 一郎
真田 秀夫
角田 礼次郎

第2次岸内閣から
第2次大平内閣

兼子 一

東京大学教授
法務庁法務調査意見長官
中央労働委員会公益委員
公共企業体等労働委員会会長

昭和34(1959)年10月1日から昭和48(1973)年4月6日

林 修三
高辻 正己
吉國 一郎

第2次岸内閣から
第2次田中内閣

林 修三

内閣法制局長官
首都高速道路公団理事長
行政監理委員会委員
駒沢大学教授

昭和39(1964)年11月10日から

高辻 正己
吉國 一郎
真田 秀夫
角田 礼次郎
茂串 俊

第1次佐藤内閣から
第2次中曽根内閣

高辻 正己

内閣法制局長官
最高裁判所判事
国家公安委員会委員

昭和47(1972)年9月8日から昭和48(1973)年4月2日
昭和55(1980)年1月19日から

吉國 一郎

 

角田 礼次郎
茂串 俊

第1次田中内閣から
第2次田中内閣

 

第2次大平内閣から
第2次中曽根内閣

吉國 一郎

内閣法制局長官
地域振興整備公団総裁

昭和51(1976)年7月10日から

真田 秀夫
角田 礼次郎
茂串 俊

三木内閣から
第2次中曽根内閣

真田 秀夫

内閣法制局長官
弁護士

昭和54(1979)年11月10日から昭和56(1981)年1月10日 角田 礼次郎

第2次大平内閣から
鈴木内閣

佐藤 功

成蹊大学教授
上智大学教授
東海大学教授

昭和55(1980)年9月1日から

角田 礼次郎
茂串 俊

鈴木内閣から
第2次中曽根内閣

加藤 一郎

東京大学学長
成城学園学園長

昭和56(1981)年1月1日から

角田 礼次郎
茂串 俊

鈴木内閣から
第2次中曽根内閣

雄川 一郎

東京大学教授
中央労働委員会公益委員
成蹊大学教授

昭和57(1982)年5月25日から昭和60(1985)年2月1日

角田 礼次郎
茂串 俊

鈴木内閣から
第2次中曽根内閣

角田 礼次郎

内閣法制局長官
最高裁判所判事

昭和58(1983)年7月9日から同年11月7日 茂串 俊 第1次中曽根内閣
塩野 宏 東京大学教授 昭和60(1985)年5月1日から 茂串 俊 第2次中曽根内閣

 

その他、森嶌昭夫(名古屋大学名誉教授)や竹下守夫(弁護士)も内閣法制局参与の経歴があります。

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか。

 

参与会という組織やその性質、さらに歴代参与についてお伝えしました。

 

とくに参与会に参加していた歴代参与の中には、内閣法制局長官のOBを始め、昭和研究会に参加していた?山政道や日本国憲法の東大憲法学の祖ともいえる宮沢俊義や東大総長の加藤一郎など権威ある人が参加していました。

 

これら権威ある人達が参与会を通じて、時の内閣法制局長官の憲法解釈に影響力を与えていたことが窺えます。

 
この記事はお役に立ちましたでしょうか。
この記事が誰かの役に立ちそうだと感じて頂けましたら、下のボタンから共有をお願い致します。

    このエントリーをはてなブックマークに追加  


ページの先頭へ戻る