占領下における法制局の活躍と抵抗そして解体、この時期に何をしていたのか

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占領下における法制局の活躍と抵抗そして解体、この時期に何をしていたのか

 

日本の敗戦後、GHQの占領下において占領行政を行うことになります。
しかし法制局は、法理を楯にしてGHQに譲らないことがしばしばありました。

 

そのことがきっかけで解体の憂き目に遭います。
ここではその占領下の法制局についてご紹介します。

 

 

 

 

抵抗する法制局

占領下の日本

昭和20(1945)年9月2日の降伏文書調印によって、日本は連合国の占領管理下に入りました。
いわゆる占領時代の到来です。
その占領時代においてGHQはやりたい放題にやりましたが、その余波は法制局も同様でした。

 

憲法改正における活躍

マッカーサーは、幣原内閣に対して大日本帝国憲法の改正を示唆しました。
そして幣原内閣の決断として帝国憲法改正を行うため、松本烝治を憲法担当の国務大臣にします。

 

その後帝国憲法改正案(甲案乙案)を作成し、松本烝治国務大臣が総司令部に提出しましたが納得されません。
そこで昭和21(1946)年2月13日にいわゆるマッカーサー草案が手交されます。

 

それから約3週間、政府首脳は苦悩することになります。
マッカーサー草案をもとにした政府の憲法改正案の提出を催促され、3月4日、松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫第一部長とともにGHQに赴きました。

 

そこで佐藤第一部長がGHQに留まり、英文の草案を元にした日本語の原案作成に当たりました。
現在の日本国憲法が口語体平仮名文になっていますが、これについては法制局が一役買っています。

 

その後3月12日には、今日のような憲法の条文内容やその他の関係法令の整備の必要性から、内閣に臨時法制調査会を設けることが閣議によって決まりました。
しかし総選挙もあり、7月3日に臨時法制調査会官制が公布され、会長を総理大臣、副会長を金森憲法担当国務大臣として、法制局長官が幹事長として兼務、法制局次長ら50人の委員からなる組織が作られました。

 

GHQへの抵抗とみられる行動

GHQの管理下にあるため、法律案の帝国議会提出や勅令や政令の制定については、GHQの了解が必要となり、事柄によっては細かく干渉を受けることが少なくありませんでした。

 

通例では審議前に予備審査を行うことにもなっています。
しかしGHQが了解を得たものに修正を行ったりすることもあるため、心証を悪くすることもありました。

 

また政府提案の法律案についても影響を及ぼす役割を果たしています。
ここについても法律の解釈でGHQに盾突くことがありましたので、同じく心証が悪くなりました。

 

そんなことから、昭和22(1947)年9月16日付けの内閣総理大臣宛ての書簡において、内務省とともに法制局の解体という問題が出ることになり、解体の憂き目となりました。

 

 

解体される法制局

解体

昭和22(1947)年9月16日付けの内閣総理大臣宛ての書簡の内容から、法制局の解体が決まり、12月17日に公布されました。

 

法制局は、法務庁設置法によって司法省と合体して法務庁となります。
のちの法務省になりますが、これによって明治より続いた法制局は解体されることになりました。

 

解体に至る経緯として、理由は明らかではありませんが、法理を楯に占領行政をスムーズに行うことが出来なかったためと思われます。

 

GHQ側の意見

例えば、GHQ民政局は昭和20(1945)年9月から3年間の占領行政についての報告書を残しています。
その中で法制局について次のように記述しています。

 

 「法制局は表面上は内閣の法律顧問および法令の起草者であったにもかかわらず、それは長年の官僚的実践と慣例のなかで、単に形式や言葉づかいを変えるのみならず、様々な官庁から上がってくる法令案を法制局自身の政策観に順応するように、その実質を変えてしまう力をふるっていたのである。」(2)Political Reorientation of Japan September 1945 to September 1948,Report of GOVERNMENT SECTION Supreme Commander for the Allied Powers,(Washington D.C.,U.S.Government Printing Office,1949),p.168。

 

法制局側の意見

当時の法制局、佐藤達夫長官と高辻正己第一部長から、次のような発言があります。

 

 「当時のわれわれの議論は、あくまでも法律論の枠内にとどまっていたにかかわらず、先方では法律論を武器として占領政策に反抗するものと誤解していたらしい。昭和二十三年の法制局解散命令もこのような処にその原因があつたと思われる。」(佐藤達夫「法制局あれこれ」法律のひろば(昭和二七年一一月号)二一頁)

 

 「当時の法制局が、総司令部に対してもときに法理を楯に譲らなかったことが、災いしたのであろう。」(高辻正己「内閣法制局のあらまし−再建二〇周年に寄せて−」時の法令(昭和四七年八月三日号)三七頁)

 

昭和23(1948)年に法務庁設置法が制定され、法制局と司法省が合体した法務庁が新設し、法制局は内閣から離れることになりました。

 

またGHQ政治部のホイットニー准将は法制局長官が法務庁法制長官としての任命は例外とするが、職員については法務庁に転用してはならないという厳命もしています。

 

その後昭和24(1949)年に法務庁を法務府へと改組し、法制意見長官が置かれました。

 

 

その後の法制局

法務省からの分離

法制局が解体されて以後、法務庁は、法務府へと改組されることになりました。
しかしその法務府も昭和27(1952)年には解体して、法務省と法制局に分かれることになります。

 

そして4年の時を経て法制局が復活することになりました。

 

法制局から改称

法制局が復活しましたが、衆議院と参議院にはそれぞれ法制局が設置されていました。
そのため、名称が同じになっていることから昭和37(1962)年になって、内閣法制局と改称することになります。

 

その後一部の増設と増員を重ねて現在に至っています。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

占領下の法制局は、その知見や仕事ぶりから形式的にも実質的にもGHQの納得するようなものにはならず、むしろ彼らから見たら反対勢力にしか見えないような働きぶりをしていました。

 

それらの要因から法制局の解体という憂き目に遭います。

 

その後は法務省と法制局が分かれて、現在の内閣法制局が誕生することになりますが、戦前にあった枢密院もすでになく、内閣法制局に対するチェック機関がない状態となりました。

 
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