伊藤博文の憲法義解〜第二十条〜

第二十条 日本臣民は法律の定むる所に従ひ兵役の義務を有す
(日本臣民は、法律の定めに従って、兵役に就く義務がある)

 

 

 

 

口語訳

日本臣民は日本帝国成立の分子にして、倶(とも)に国の生存独立及光栄を護る者なり。
上古以来我が臣民は事あるに当てその身家の私を犠牲にし本国を防護するをもって丈夫の事とし、忠義の精神は栄誉の感情と倶に人々祖先以来の遺伝に根因し、心肝に浸漸(しんぜん、しだいにしみ込むこと)してもって一般の風気を結成したり。
聖武天皇の詔に曰く。
「大伴佐伯の宿禰は常も云ふごとく、天皇(すめら)が朝(みかど)守り仕へ奉る事顧みなき人等(ひとども)にあれば、汝等(いましたち)の祖(おや)どもの云ひ来らく、『海行かば、みづく屍(かばね)、山行かば草むす屍、王(おおきみ)のへにこそ死なめ、のどには死なじ』と云ひ来る人等(ひとども)となも聞しめす」と。
この歌即ち武臣の相伝へてもって忠武の教育をなせるところなり。
大宝以来軍団の設あり。
海内丁壮(ていそう、働き盛りの男性)兵役に堪ふる者を募る。
持統天皇の時毎国丁四分の一を取れるは即ち徴兵の制の由て始まるところなり。
武門執権の際に至て兵農職を分ち、兵武の事をもって一種族の専業とし、旧制久く失いたりしに、維新の後、明治四年武士の常識を解き、五年古制に基き徴兵の令を頒行(はんこう)し、全国男児二十歳に至る者は陸軍海軍の役に充たしめ、平時毎年の徴員は常備軍の編制に従い、而して十七歳より四十歳迄の人員は尽(ことごと)く国民軍とし、戦時に当り臨時召集するの制としたり。
これ徴兵法の現行するところなり。
本条は法律の定むる所により全国臣民をして兵役に服するの義務を執らしめ、類族門葉(るいぞくもんよう)に拘らず、又一般にその志気身体を併せて平生に教養せしめ、一国雄武の風を保持して将来に失墜せしめざらむことを期するなり。

 

 

現代語訳

日本臣民は日本帝国構成の一員であり、ともに国の生存独立及び光栄を守る者である。
古代以来、我が臣民はことある時に自分の身や家という私事を犠牲にして、本国を防護することをもって一人前の男児とし、忠義の精神は栄誉の感情とともに人々の祖先以来の遺伝に受け継がれ、心身に深く浸透して、一般の気風を結成した。
聖武天皇の詔に言うには。
「大伴、佐伯の宿禰(すくね)は、常に言うように、天皇の朝廷を守り仕え申し上げることに自己を顧みない人達であり、あなた達の祖先が言い伝えてきた、『海行かば、みづく屍、山行かば、草むす屍、王のへにこそ死なめ、のどには死なじ(海を行けば水に浸かった屍、山を行けば草が生えた屍となり、王のお側近くで死にたい、のどかな死に方はない)』と言うことを、継ぐ人達だと聞いている」と。
この歌は、すなわち武臣に相伝して忠武の教育をすることができる。
大宝令以来軍団を置く。
成年男子で兵役に堪える者を募る。
持統天皇の治世において、国ごとに成年男子の四分の一を採ったのは、すなわち徴兵制が始まったことを示している。
武門政権の時代には、武士と農民の職を分け、兵武のことは一種族の専業とし、徴兵の旧制が久しく失われていたが、維新の後、明治四年に武士の常職を解き、明治五年には古代の制度に基づいて徴兵令を公布し、二十歳に達した全国男子は陸海軍の兵役に就き、平時の毎年の徴発は常備軍の編成に従い、そうして十七歳より四十歳までの人員は残らず国民軍として、戦時に臨時召集する制度とした。
これは、現在の徴兵の方法として行われている。
本条は、法律の定めるところによって、全国の臣民を兵役に服する義務を執らせ、身分にかかわらず、一般にその士気や身体を併せて平生において教育させ、一国の武勇の気風を保持して、将来に失われないように定めたものである。

 
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昭和12年学会
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