憲法義解〜第六条

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憲法義解〜第六条

第六条 天皇は法律を裁可し其の公布及執行を命す
(天皇は法律を裁可して、その公布と執行を命じる)

 

 

 

 

口語訳

恭て按ずるに、法律を裁可し、式により公布せしめ、及執行の処分を宣命す。
裁可はもって立法のことを完結し、公布はもって臣民遵行の効力を生ず。
これ皆至尊の大権なり。
裁可の権既に至尊に属するときは、その裁可せざるの権はこれに従ふこと言はずして知るべきなり。
裁可は天皇の立法における大権の発動する所なり。
故に議会の協賛を経といえども、裁可なければ法律を成さず。
けだし古言に法を訓(よ)みて宣(のり)とす。播磨風土記に云ふ。
「大法(おほのり)山(今名勝部岡)品太(ほむだ)の天皇(すめらみこと、応神天皇)この山於、大法(おほのり)を宣(のりたまふ)大法山故曰く」と。
言語は古伝遺俗を徴明するの一大資料たり。
而して法律は即ち王言なることは、古人既に一定の釈義ありて謬(あやま)らざりしなり。
(附記)これを欧州に参考するに、君主法案の成議を拒むの権を論ずる者その説一に非ず。
英国においてはこれをもって君主の立法権に属し、三体(君主及上院下院を云ふ)平衡の兆証とし、仏国の学者はこれをもって行政の立法に対する節制の権とす。
抑々(そもそも)彼のいわゆる拒否の権は消極をもって主義とし、法を立つる者は議会にしてこれを拒否する者は君主たり。
これ或は君主の大権をもって行政の一偏に限局し、或は君主をして立法の一部分を占領せしむるの論理に出づる者なるに過ぎず。
我が憲法は法律は必ず王命によるの積極の主義を取る者なり。
故に裁可によって始めて法律を成す。夫(そ)れ唯王命による。故に従て裁可せざるの権あり。
これ彼の拒否の権とその跡相似てその実は霄壌(しょうじょう、天と地)の別ある者なり。

 

 

現代語訳

恭んで考えるには、天皇は法律を裁可し、形式に則って政府に公布させ、さらに執行の処分を命令する。裁可によって立法は完結し、公布により臣民が遵守すべき効力が生じる。
これは、すべて至尊たる天皇の大権である。
裁可の権限がすでに至尊たる天皇に属すときは、不裁可の権限もこれに従うことは、言うまでまないことである。裁可は天皇の立法における大権の発動するところである。
ゆえに議会の協力と賛成を経ているといえども、裁可がなければ法律として成立しない。
思うに、古の言葉に「法」を「宣(のり)」と読む。『播磨風土記』に、「大法山、応神天皇がこの山において大いなる法を宣明された。それゆえに大法山という」とある。
言葉は、古くから伝わる遺された話や風俗を明らかにする一大資料である。
そのため法律はすなわち天皇の言葉であることは、古人がすでに一定の解釈があって、誤りのないものである。
(附記)これをヨーロッパの制度を参考にしてみると、君主が議会の法案の議決を拒む権限について論じた説は一つではない。イギリスにおいては、拒否権を君主の立法権に属すものとし、君主・上院・下院の三体の平衡を保つ証としている。フランスの学者は、行政権が立法権に対して制約する権限としている。
そもそもヨーロッパのいわゆる拒否権は消極的なものとみなし、立法は議会であり、これを拒否する者は君主である。
これは君主の大権を行政の一部分に限定するか、あるいは君主は立法の一部分を占めるかの論理にすぎない。
我が憲法は、法律は必ず天皇の命によるという積極的なものとみなしている。
ゆえに裁可によって初めて法律として成立する。それはただ天皇の命による。
ゆえに裁可しない権限もある。
これは、ヨーロッパの拒否権と似ているが、実は雲泥の差があるものである。

 

 

ポイント

法律は、天皇の名によって公布されます。
現在では国事行為となり、国会を通った法律は一つ一つ目を通して署名しています。

 
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