飛鳥時代は蘇我氏の専横時代ともいえる時代、飛鳥時代の天皇を紹介

 

聖徳太子

はじめに

 

飛鳥時代といえば、前半は蘇我氏の専横による時代となります。
日本の歴史の時代区分としては、飛鳥時代には入りませんが、欽明天皇から文武天皇の時代としています。

 

ここでは、飛鳥時代の代表的な天皇をご紹介します。

 

 


 

飛鳥時代の天皇とは

 

氏族政治

古墳時代に引き続き、氏族政治の時代です。

 

氏族政治とは、氏姓によって職種が決まっており、大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)が政治を行う体制でした。

 

この氏族政治は、蘇我氏の専横を経て、乙巳の変後の大化の改新によって終焉を迎えます。

 

兄弟継承

継体天皇の後の天皇は、兄弟継承が少なくない割合となっています。
それまでの皇統において、父子継承している事例もありますが、兄弟継承もありました。

 

この時代はあくまで皇統を継ぐことが目的で、直系や兄弟の継承にこだわりはなかったといえます。

 

飛鳥時代の天皇とその他の人物

 

欽明天皇

欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女との間の皇子で、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という名です。
この天皇の治世の時に仏教が伝来します。

 

欽明天皇が外来宗教である仏教を受け入れた後は、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏、中臣氏を中心に論争が起こることになりました。

 

論争は抗争へと変わり、蘇我稲目と物部尾輿の対立から、子の蘇我馬子と物部守屋に持ち越されることになります。
この抗争を丁未の乱(ていびのらん)といいます。
しかしこの宗教抗争は、ヨーロッパとは異なり100年程で終息することになりました。

 

蘇我稲目

蘇我稲目は、武内宿禰(たけうちのすくね)の流れを組む系統で、子に蘇我馬子、娘に堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねのきみ)がいます。

 

蘇我稲目は、子の蘇我馬子の娘も天皇に嫁がせることによって蘇我本宗家が外戚の地位を継承し、権力を持つことになりました。

 

欽明天皇と小姉君の子には、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)のちの用明天皇の皇后、穴穂部皇子(あなほべのみこ)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)のちの崇峻天皇が生まれています。

 

穴穂部皇子は、聖徳太子の叔父でもあります。
そして物部守屋が天皇に立てようとしますが、蘇我馬子が炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)を奉じて誅殺するように詔を出し、誅殺されてしまいます。

 

泊瀬部皇子つまり崇峻天皇は、蘇我馬子に推薦され即位しますが、蘇我馬子によって警戒され暗殺されました。

 

欽明天皇と堅塩媛の子で、橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)のちの用明天皇と額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)のちの推古天皇、また用明天皇と穴穂部間人皇女の子で聖徳太子がいます。

 

推古女帝

推古女帝は、欽明天皇と蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)との間の皇女で、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)という名です。

 

それまで大王代行として臨朝を行った神功皇后や飯豊青皇女の先例がありましたが、女性天皇として即位した先例は、これが初見となります。

 

聖徳太子

聖徳太子は、用明天皇と穴穂部間人皇女との間の第2皇子で、厩戸皇子(うまやどのみこ)という名です。

 

推古天皇の時代、日本の歴史上始めての摂政となり、冠位十二階十七条憲法天皇記国記の編纂等を行いました。

 

 夏四月庚午朔巳卯、厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子(ひつぎのみこ)と為す。仍て摂政を録し、万機を以て悉(ことごと)く委ねたまう。

 

仲哀天皇の時期に、神功皇后が執政をしたことで、摂政の初見といわれることがありますが、こちらは摂政ではなく臨朝であるため聖徳太子が最初となります。

 

十七条憲法とは、推古天皇12(604)年に聖徳太子が作成した十七条からなる法文書です。
しかし憲法という名がついていますが、現在のような近代憲法典ではありません。

 

まず「憲法」の「憲」はノリといい、ノリは「宣」ともいいます。
これは天皇が公に発する意思表明を意味し、それを「命(みこと)を宣(の)る」といい、文書化によって「詔(みことのり)」となります。
つまり「詔」は民の従うべき掟であり、「法」です。

 

外交面において特筆するのは、隋に渡した国書です。

 

推古15(607)年の第2回遣隋使において小野妹子が、国書を持って派遣されます。
これは隋の皇帝煬帝に宛てた国書でした。

 

 日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや

 

しかしこの国書を持ってきたことから煬帝が激怒することになります。
それはこの国書に、天子という文言が入っているためです。
そもそも天子は、中華の皇帝だけを表わすもので、周辺諸国の最高位は「王」でした。

 

煬帝から見れば、無礼にも倭国の王が天子という言葉を使い対等関係であるかのように国書に記載してきたことから激怒することになります。

 

その後は、倭国に対して戦争を仕掛けることもなく、隋の国内で反乱等が起きて滅亡することになりました。

 

皇極女帝

皇極女帝は、茅渟王(ちぬのおおきみ)と吉備姫王(きびひめのおおきみ)との間の皇女で、天豊財重日足姫尊(あめとよたからいかしひたらしひめのみこと)です。
また舒明天皇の皇后でした。

 

皇極女帝は、乙巳の変によって蘇我入鹿が討たれ蘇我蝦夷が自害すると、その翌日には軽皇子(かるのみこ)に譲位することになります。

 

 庚戌、位を軽皇子(かるのみこ)に譲り、中大兄を立てて皇太子と為(し)たまう。

 

そして新天皇の孝徳天皇から、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の尊号を送られ、これが太上天皇の前身としての先例が作られることになります。

 

 是の日に、号を豊財(とよたから)天皇に奉りて皇祖母尊と曰(まお)す。中大兄を以て皇太子と為たまう。

 

孝徳天皇

孝徳天皇は、茅渟王(ちぬのおおきみ)と吉備姫王(きびひめのおおきみ)との間の皇子で、軽皇子という名です。
また皇極女帝の弟に当たります。

 

孝徳天皇は、乙巳の変後皇極天皇から譲位され即位することになります。
そして即位から数日後に初めての元号が使用され、それが大化という元年です。

 

 天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年と為す。

 

大化の改新の新体制として、大夫(まえつぎみ)の筆頭として朝廷の重鎮であった阿倍内麻呂(あべのうちまろ)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだのいしかわのまろ)を右大臣として、従来の大臣を左右に分けます。

 

中臣鎌足は内臣(うちつおみ)に任じられ、天皇や皇太子の輔佐役になりました。

 

隋や唐に留学した僧旻(そうみん)と高向漢人玄理(たかむこのあやひとくろまろ)を国博士に任じて、中大兄皇子の政治顧問としています。

 

大化2(646)年には、改新の詔が出され氏族政治が終焉し、律令制度が導入し新しい政治体制となりました。

 

天智天皇

天智天皇は、斉明天皇崩御後、天皇に即位することなく称制として政務を行い、その後即位することになります。

 

皇太子時代は中大兄皇子として、中臣鎌足とともに乙巳の変で蘇我馬子を暗殺し、新しい政治体制へとなりました。

 

天智天皇の治世では、白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗退し、朝鮮半島に関わることが出来なくなります。
そのため防衛線を対馬に置くことになり、北九州の守りを固めることになりました。

 

中臣鎌足が病に倒れた際には、その臨終の際に冠位の最上位である大織冠藤原姓を与えることになります。

 

天智天皇の崩御後は、弟の大海人皇子と皇子の大友皇子による古代史至上最大の内戦である壬申の乱が起こり、勝利したのが弟の大海人皇子で、のちの天武天皇となりました。

 

壬申の乱は、それまで皇位継承が兄弟継承だったものから直系継承へ変えようとして起きた争いです。
この兄弟継承から直系継承への転換、天武天皇の勝利によって挫折することになりましたが、それ以後その方針を受け継いでいく流れが出来ました。

 

大宝律令の継嗣令には、「三位以上の継嗣については、みな嫡子(=嫡妻の長子)が相承すること。」と嫡子継承を原則として規定されています。

 

天武天皇

天武天皇は、壬申の乱に勝利して即位し、その後天武天皇の系統が称徳天皇まで続きました。
そしてこの年に大王から天皇を名乗るようになります。

 

持統天皇

持統天皇は、太上天皇の尊号を称した天皇の初例とされています。

 

譲位をした天皇としては皇極天皇がいますが、その時は皇祖母尊として、太上天皇とは別の扱いとされています。

 

文武天皇

文武天皇は、それまで定められていなかった国号を日本とします。
これをもって日本国の誕生とすることが出来ますが、日本の前に天皇は存在していたことにもなります。

 

律令法の成文化も文武天皇の治世に制定されることになります。
それが大宝律令です。

 

この記事で学べること

 

いかがだったでしょうか。

 

飛鳥時代は、氏族政治の後期にもなりますが、蘇我氏の台頭と崩壊そして律令制度を導入していく時代です。
のちの先例につながる摂政や太上天皇の初例もこの時代からとなります。

 

この記事のおすすめ本

旧皇族が語る天皇の日本史(PHP新書)(竹田 恒泰)

歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(中公新書)(笠原 英彦)

 
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