神話と呼べないが歴史と呼べるほど実証されていない伝承上の天皇、皇統はここから始まる

 

神武天皇

はじめに

 

天皇には実在性不確かな天皇がいます。
これは、古事記や日本書紀の史料批判した結果としてのものやそもそも歴史的事実が発見されていないことから、実在しなかったのではないかと言われています。

 

ここでは、そんな天皇を伝承上の天皇としてご紹介します。

 

 


 

伝承上の天皇とは

 

欠史八代

欠史八代とは、戦前の歴史学者の津田左右吉が、古事記と日本書紀の史料批判した結果として、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの天皇を実在性のない天皇とみなすこととして「欠史八代」説が主流となっています。

 

伝承上の意味

伝承上の天皇という表現で歴史と区別している理由としては、歴史的事実が発見されていないことや考古学的にも不確かなことがある中で、古事記や日本書紀には記載されています。
そのことから、歴史とも神話とも言えないため伝承上という表現をしています。

 

大和朝廷の成立

大和朝廷の原型は、九州の福岡県山門郡から宮崎県高千穂町あたりにあり、稲作などの文化によって勢力をもっていました。
その中の主要な勢力が東征し、畿内の奈良県橿原市畝傍あたりに新しい国を建国しました。

 

伝承上の天皇とその他の人物

 

神武天皇

神武(じんむ)天皇は、彦波瀲武??草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と玉依姫(たまよりひめ)との間の子で、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)という名です。

 

大和系と出雲系と別れていましたが、神日本磐余彦尊の父親は大和系で、母親は出雲系で、その系統が合わさったものとなります。

 

神日本磐余彦尊は、宮崎県から関西地方まで東征して、畝傍山の東南橿原の地において、始馭天下之天皇(はつくにしろしめすすめらみこと)として即位し、日本が建国されます。
その時に建国の詔が出されることになります。

 

この即位日が紀元前660年1月1日であり、新暦に換算すると2月11日となるため、現代では休日として建国記念日となっています。

 

神武天皇が即位してからそれ以後の天皇は、歴代遷宮といって、天皇が変わるごとに新しい場所に都を造り、そして元旦に天皇が即位することになりました。

 

綏靖天皇

綏靖(すいぜい)天皇は、神武天皇と皇后媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)との間の第三皇子で、神沼河耳命(かむぬまかわみみのみこと)という名です。

 

腹違いの兄の多芸志美美命(たぎしみみのみこと)に政事を任せられていましたが、神武天皇の服喪の期間に権力をほしいままにし、二人の弟を殺そうとします。

 

しかし、神沼河耳命は、兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と共に、多芸志美美命を襲い、これを討つことに成功しました。

 

この時に兄の神八井耳命は多芸志美美命を目の前にして討つことが出来なかったことから、皇位は弟に譲り、自らは弟を助けるため神祇を司ることになりました。

 

 吾は仇(あた)を殺すこと能わず。汝命(いましみこと)既に仇を得殺しらまいき。故、吾は兄なれども上(かみ、天皇)となるべからず。ここをもちて汝命上となりて、天の下治らしめせ。僕は汝命を扶(たす)けて、忌人(いわいびと 神祇を行う人)となりて仕えて奉らむ。

 

この時から皇位と神祇を分けることになり、しばらくは第二子が統治権をもつ天皇となり、第一子が祭祀権が与えられる先例が作られることになりました。

 

崇神天皇

崇神(すじん)天皇は、開化天皇と皇后御間城姫(みまきひめ)との間の第2皇子で、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのみこと)という名です。

 

崇神天皇は、四名の皇族をそれぞれの地域に派遣し、平定したという話があります。

 

大彦命(おおひこのみこと)は北陸に、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海に、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道に、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)を丹波に将軍(いくさのかみ)として遣わされることになります。これを四道将軍といいます。

 

 九月丙戌朔甲午、大彦命を以ては北陸に遣し、武渟川別を東海に遣し、吉備津彦を西道に遣し、丹波道主命を丹波に遣したまう。因りて以て詔して曰く、若し教を受けざる者有らば、乃ち兵を挙げて之を伐て。既にして共に印綬を授いて将軍と為たまう。

 

ここで北陸に派遣された大彦命は、1968年に埼玉県行田市の古墳からで出土した稲荷山古墳出土鉄剣銘に「意富比?(おほひこ)」と見える人物であるとされており、また鉄剣は四七一年当時のものとされ、大彦命に比定されています。

 

倭迹迹日百襲姫命

倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は、孝霊天皇と倭国香媛(やまとのくにかひめ)との間の皇女です。

 

大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる巫女的な女性で、百襲姫は大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻になったと言われています。

 

 故れ時の人その墓を号(なづ)けて箸墓という。この墓は、日(ひる)は人作り、夜は神作る。

 

箸墓古墳は、「日本書紀」に伝承があります。

 

崇神紀十年九月に、大物主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命が、夫の姿を見たいと頼み、小蛇であることをみて驚き、大神は恥じて、御諸山(三輪山)に還ってしまいます。

 

そこで倭迹迹日百襲姫命は、箸に陰部を撞いて死んだという三輪山伝説です。

 

崇神紀七年二月には、崇神天皇が、災害がしばしば起こるので「災を致す所由(ことのよし)を極め」ようと、占いを行います。

 

すると倭迹迹日百襲姫命が神懸かりし、「天皇、何ぞ国の治まらざるを憂うる。もしよく我を敬い祭れば、必ず当に自平(たいら)ぎなむ」と、大物主神が名乗って宣し、大田田根子(おおたたねこ)に祭らせたという伝承です。

 

それらのことから倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼に比定される説があり、それは神懸かりしたことや仮に邪馬台国が畿内にあった場合に箸墓古墳がその可能性があることからとなります。

 

そしてその前提に立った上でいうと、卑弥呼の後継者の台与は、伊勢神宮初代斎宮の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)と言われています。

 

 故れ天照大神を以ては、豊鍬入姫命を託(つ)けまつりて、倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)に祭(いわいまつ)りたまう。

 

日本武尊

日本武尊(やまとたけるのみこと)は、景行天皇と皇后播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の皇子で、仲哀天皇の父にあたる人物です。

 

日本武尊の東征と西征によって、全国統治の礎が確立されました。

 

有名な日本武尊の歌があります。

 

 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし
(倭は、もっともすぐれた国。たたみ重なって青々とした垣のような山に囲まれた倭は美しい)

 

これは、その後の天皇で国見の儀というものが出てくることになりますが、それを表している内容といえます。

 

また成務天皇の皇統は、直系として続くことがなく兄の日本武尊の子である仲哀天皇の皇統に続くことになります。

 

神功皇后

神功皇后は、開化天皇玄孫の息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)と渡来人の新羅王子天日矛(あめのひぼこ)の末裔の葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)との間の子で、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)という名です。

 

仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母にあたる人物です。

 

日本書紀において神功皇后を摂政として他の天皇に準じた扱い方をしているのが特徴で、明治以前には皇后による臨時の王朝である臨朝として女帝とされた時代もありました。

 

女帝については、扶桑略記に、女帝の始まりという表記や播磨国風土記と摂津国風土記にも天皇という表記がみられます。しかし大正15(1926)年10月には、神功皇后が天皇から外されることになりました。

 

 神功天皇 十五代 治六十九年 王子一人即位 女帝始之(扶桑略記)

 

神功皇后は女帝というよりは、仲哀天皇が崩御し、皇后の臨朝つまり大王の代行者として熊襲の討伐や三韓征伐を行っています。

 

三韓征伐は、応神天皇を身ごもったまま朝鮮半島に渡り、百済、新羅、高句麗を退治し、その後百済からの帰化人が流入することになります。その中で有名な氏族は秦氏という氏族です。

 

天皇が崩御したのち、次の天皇が決まる前に即位せずにそのまま政務を執り行うことを称制といい、のちの中大兄皇子や?野皇后の例にもありますが、これと同義に捉えることも出来ます。

 

しかし蘇我馬子が推古天皇を女帝にする際の先例は、この神功皇后に則っています。

 

神功皇后を摂政元年としているのは、応神天皇を身ごもっていることから摂政として政務を執り行ったと捉えることが出来ます。

 

 冬十月癸亥朔甲子、群臣皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳辛巳、即ち摂政元年と為す。

 

この記事で学べること

 

いかがだったでしょうか。

 

伝承上の天皇とは、実在性が確認されてはいませんが、古事記や日本書紀などを始めとして伝承として残されている天皇です。

 

その中には、皇位と神祇を分けるという先例を始め、現在にも通ずるものや今では残っていない先例なども見受けられます。

 

大きな歴史の流れの中でなお残るものそして消えていくものをみていくことで天皇を通じて歩んできた歴史を垣間見ることが出来ます。

 

この記事のおすすめ本

現代語古事記 ポケット版(竹田 恒泰)

令和新修 歴代天皇・年号事典(米田 雄介)

 
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