歴史の始まり、実在性が確認されている古墳時代の天皇を紹介

 

仁徳天皇

はじめに

 

日本の歴史は、時代区分によっては意味合いが異なることがあります。
そのため古墳時代の天皇としては、応神天皇から継体天皇の時代とします。

 

ここでは、古墳時代の代表的な天皇をご紹介します。

 

 


 

古墳時代の天皇とは

 

氏族政治

氏族政治とは、氏姓によって職種が決まっており、大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)が政治を行っていました。

 

氏族政治の時代は、飛鳥時代の蘇我氏の専横までとなり、古墳時代は氏族政治の全盛といえます。

 

倭の五王

倭の五王とは、宋の歴史をまとめた宋書に、讃、珍、済、興、武の五人の王が登場します。

 

讃は応神天皇あるいは履中天皇
珍は、反正天皇
済は、允恭天皇
興は、安康天皇
武は、雄略天皇

 

と比定されています。

 

実在性が確認されている天皇

実在性が確認されている天皇としては、雄略天皇です。

 

考古学的見地として、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘や熊本県の江田船山古墳出土大刀銘が471年当時のものとされています。

 

 稲荷山古墳出土鉄剣銘
 辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)

 

 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人(じょうとうじん)の首と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵(ワカタケル)の大王の寺(朝廷)、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し(佐け治め)、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記すなり。(裏)

 

 江田船山古墳出土大刀銘
 天の下治らしめし獲□□□鹵(ワカタケル)大王の世、典曹(てんそう)に奉事せし人、名はムリテ、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振(う)つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得るなり。其の統(す)ぶる所を失わず。刀を作る者、名はイタワ、書するのは張安なり。

 

つまり、5世紀後半の大和朝廷の支配権は九州から関東にまで及んでいた可能性が想定されています。

 

古墳時代の天皇とその他の人物

 

仁徳天皇

仁徳天皇は、応神天皇と皇后仲姫命(なかつひめのみこと)との間の第4皇子で、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)という名です。
幼い頃から聡明で知られていました。

 

仁徳天皇の特筆すべきことといえば、民の竈伝説です。
これは日本独自の君主と民のあり方が表されている内容といえます。

 

そして仁徳天皇の治世は、灌漑や治水などの公共事業を行っていて、その功績もあって、大阪府堺市の大山古墳、全長四百八十六メートルの日本一大きい前方後円墳が造られました。
大山古墳が仁徳天皇陵に比定されてはいますが、現在ではこれを疑問視する見解も存在しています。

 

民の竈伝説は、次のとおりです。

 

仁徳天皇が即位して四年目になり、高台に登って民の様子を見ていたところ、家々から炊事の煙が立ち上っていないことに気づきました。

 

なぜ、煙が立ち上っていないかを家臣に聞いたところ、民が貧しい生活をしており、税金を払えない状況でご飯も食べられない状態であることを伝えます。

 

そこで仁徳天皇は、民が苦しいのであれば、三年間税を免除する詔を出しました。
これを、群臣に下し給える詔といいます。

 

 朕、高どのに登り、遠く之を望むに、煙気(けむり)、域中(くにのなか)に起らず。以為(おも)うに百姓既に貧しくして、家に炊ぐものなきならん。朕聞く『古の聖王の世には、人々詠徳の音(こえ)をなし、家家康哉(こうさい)の歌有りき』と。今朕億兆に臨むこと、ここに三年なれども、頌音(しょうおん)聴えず。炊煙転(うた)た疎(それ)なり。即ち五穀登(みの)らずして、百姓の窮乏せることを知りぬ。封畿(ほうき)の内、なお給せざる者有り。況(いわ)んや畿外の諸国においてをや。

 

その後もさらに三年間税を免除する詔を出します。
これを、課役を除くの詔といいます。

 

 今より後、三載(さい)に至るまで、悉(ことごと)く課役を除き、百姓の苦しみを息(のぞ)かしめよ。

 

気候も順調で民は豊かになり、高台に立つと炊事の煙があちこちに上がっているのが見え、民の生活は見違えるように豊かになってきました。

 

それを見て仁徳天皇は喜ばれ「自分は、すでに富んだ」と言います。
しかし仁徳天皇の着物や履物は破れ、宮殿も荒れ果てていたがそのままにしていました。

 

それを耳にされた皇后は「宮殿が崩れ、雨漏りもしているのに、どうして富んだと言われるのですか」と言います。

 

すると仁徳天皇は「昔の聖王は民の一人でも飢え寒がる者があるときは自分を顧みて自分を責めた。
今、民が貧しいということは自分も貧しいのだ。
民が富んでいるということは自分も富んでいる」と答えました。

 

やがて民が仁徳天皇に感謝し、荒れ果てた宮殿作りに励むことや税を受け取ってもらうために赴くことになります。
そして宮殿はすぐに完成し、それ以来仁徳天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」と称えるようになりました。

 

雄略天皇

雄略天皇は、允恭天皇と皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)との間の第5皇子で、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけのみこと)という名です。

 

すでにご紹介していますが、稲荷山古墳出土鉄剣銘と江田船山古墳出土大刀銘で実在性が確認出来る天皇です。

 

日本書紀での記載は、残酷な天皇として知られています。

 

残酷な天皇の所以は、天皇に即位する前に眉輪王(まよわおう)の変という事件がありました。

 

まず允恭天皇の前の天皇の安康天皇が、叔父の大草香皇子(おおくさかのみこ)が天皇に反抗しているのではないかということで皇子を殺害してしまいます。

 

それを知った大草香皇子の子供である眉輪王が父の仇討ちのため安康天皇を暗殺します。

 

その報告を聞いたのちの雄略天皇は、兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)が眉輪王討伐に立ち上がらないことから、暗殺側の一味として切り殺してしまいました。

 

次に安康天皇の兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)のもとに確認しますが消極的な返事しかしませんでした。

 

その後坂合黒彦皇子は、眉輪王とともに当時の有力豪族の葛城円(かつらぎのつぶら)大臣の屋敷に逃げ込むことになります。

 

そして雄略天皇は兵をあつめて屋敷を包囲し、そこで葛城円の娘の韓媛(からひめ)と所領の「葛城の宅(いえ)、七区(ななところ)」(『古事記』では「五処(いつところ)の屯宅(みやけ)」を差出して許しを乞いますが、認められず焼き殺されてしまいました。

 

これが眉輪王の変です。

 

その後葛城系皇族も、さらなる復讐の芽を摘むため殺害され、それが間接的な原因となって、のちに武烈天皇の代で仁徳天皇から続く皇統が断絶することになります。

 

その間接的なきっかけを作ったのは雄略天皇でした。

 

2つの出土した鉄剣銘と大刀銘から、5世紀後半の大和朝廷の支配権は九州から関東にまで及んでいた可能性が想定されています。

 

最後に万葉集の一番初めの大泊瀬稚武(おほはつせのわかたけ)天皇の御製歌(おほみうた)は、雄略天皇の歌です。

 

 籠(こ)もよ み籠(こ)もち
 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)もち
 この岳(おか)に 菜摘(なつ)ます児(こ)
 家告(の)らせ 名告(の)らさね
 そらみつ 大和(やまと)の国は
 おしなべて 吾こそ居(お)れ
 しきなべて 吾こそ座(いま)せ
 我にこそは 告(の)らめ 家をも名をも

 

この歌の場面は、春の若菜摘みの場面で、籠と堀串(土堀り用のへら)を持って岳で若菜を摘む娘に対して、我こそは、そらみつ大和の国を統治する王であると名のり、私に家と名を教えよと、求婚した歌となっています。

 

ここでも大和の国を統治する王とあり、鉄剣銘と大刀銘で示しているものと共通する部分があります。

 

飯豊青皇女

飯豊青(いいとよあお)皇女は、履中天皇と皇后葛城黒媛(かつらぎのくろひめ)の皇女で、清寧天皇の崩御後、次の顕宗天皇が即位するまでの期間の政務を取り仕切っていました。

 

飯豊青皇女は、神功皇后と推古女帝を繋ぐ中間に位置していますが、こちらも神功皇后と同じく、「大王の代行者」として「臨朝秉政」(りんちょうしょうせい)を行っています。

 

そのため日本書紀にある記載で「尊」、「崩」、「陵」の字が使われ、天皇に準じた扱いにもなっていました。

 

 五年春正月、白髪天皇崩りたまう。是の月、皇太子億計王、天皇と位を譲り、久しうして処たまわず。是に由りて天皇の姉飯豊青皇女、忍海角刺宮に於て臨朝秉政したまう。自ら忍海飯豊青尊と称りたまう。

 

また扶桑略記や、室町時代で後小松天皇の命によってまとめられた本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)においても飯豊天皇という表記がみられていますが、現在は天皇ではありません。

 

 飯豊天皇 二十四代 女帝(扶桑略記)
 女王 飯豊天皇(本朝皇胤紹運録)

 

武烈天皇

武烈天皇は、仁賢天皇と雄略天皇の皇女で皇后春日大娘(かすがのおおいらつめ)との間の皇子で、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)という名です。

 

日本書紀では、残虐な性格の持ち主とされています。
その残虐ぶりは、妊婦のお腹を割いて胎児を見ようとしたなどがあります。

 

8年間の在位で崩御することになりますが、皇子がいないため皇嗣問題が深刻化することになりました。

 

中国の歴史になぞらえて仁徳天皇の王朝が断絶したという説もあります。

 

継体天皇

継体天皇は、応神天皇の5世の孫で彦主人王(ひこうしのおおきみ)と垂仁天皇7世の孫の振媛(ふりひめ)との間の子で、男大迹尊(をほどのみこと)という名です。

 

武烈天皇に皇嗣がいなかったため、応神天皇の五世の孫である男大迹尊が招聘され、大連の大伴金村などの群臣に従って即位することになりました。
これを傍系継承といいます。

 

 天皇(武烈)既に崩(かむあが)りまして、日続(ひつぎ)知らすべき王無かりき。故(かれ)、品太(ほむだの、応神)天皇の五世(いつつぎ)の孫(ひこ)、袁本杼(をほどの)命を近つ淡海(あふみ)より上りまさしめて、手白髪(たしらか)命に合はせて、天の下を授け奉りき。

 

そして傍系継承であるがゆえに、それまでの仁徳天皇以来の皇統とは離れ過ぎてしまいます。
そこで仁賢天皇の皇女である手白香皇女(たしらかのひめみこ)、武烈天皇からみれば妹にあたる人を皇女として迎え入れることで、女系としてその系統を受け継ぐことになりました。

 

 宣(う)べ禮儀(ことわりのよそい)を備えて手白香皇女を迎え奉れ。甲子、皇后手白香皇女を立てて、内(うちつこと)に修教(まつりごと)せしむ。遂に一(ひとりの)男を生みます。是を天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと)と為す。

 

つまり、男系としては五親等離れますが、女系としては二親等になり、仁徳天皇以来の皇統から見れば近くなります。

 

男系から見れば遠い系統も女系によって近くするという先例の初見であり、これはその後の時代においても活用される先例となります。

 

次の天皇である安閑天皇とその次の天皇の宣化天皇は、尾張氏の尾張目子媛(おわりのめのこひめ)を母親としており、異母兄弟の欽明天皇と比べると陵の規模を見ても差が出ていることがあり、女系として系統を繋いでいるかいないかで区別もされています。

 

この記事で学べること

 

いかがだったでしょうか。

 

古墳時代の天皇とは、倭の五王であったり、断片的ではありますが、歴史として残されている時代の天皇となります。

 

とくに継体天皇の先例や女系としての血統を繋いでいくのは、その後の時代においても活用されることになる先例となっています。

 

この記事のおすすめ本

令和新修 歴代天皇・年号事典(米田 雄介)

歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(中公新書)(笠原 英彦)

 
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