奈良時代の代表的な天皇はどんな先例を作ったのか、奈良時代の天皇を紹介

 

桓武天皇

はじめに

 

奈良時代は、奈良に平城京という都が置かれた時代で、この時代の天皇は、元明天皇から光仁天皇です。

 

ここでは、奈良時代の代表的な天皇をご紹介します。

 

 


 

奈良時代の天皇とは

 

皇親政治

大化の改新後中華の律令制度が継受され、律令体制が整備されていきます。

 

そして天智天皇の皇子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が争った壬申の乱以後には、天皇と皇族による政治体制として皇親政治の時代となりました。

 

この時期に中華法を継受し、律令法が整備されていく時代でもあります。

 

不改常典

不改常典とは、「改めるまじき常の典と定め賜ひ敷き賜ひた法」として元正天皇などの即位の際の詔に触れられているものです。

 

これは天智天皇が定めた法とされていますが、その内容がどういうものかについては、様々な説があります。
その中で批判も多くありますが、直系や嫡系皇位継承を定めたものとする説をいう人が多いです。

 

奈良時代の天皇とその他の人物

 

元正女帝

元正女帝は、天武天皇の皇子の草壁皇子と元明女帝との間に生まれたのが日高内親王です。

 

元正女帝をもって女系天皇の先例と言われることがあります。

 

それは大宝律令の継嗣令には、「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること(女帝の子もまた同じ)」とあります。
そして元明女帝の子になるため、女系天皇の先例と言われます。

 

しかしこの時期は、皇族同士の婚姻が前提となるため、後に光明皇后を初見として皇族以外からの立后がなされて以後、女帝の子が皇族となる先例が作られることはありませんでした。

 

光明皇后

光明皇后は、藤原不比等と県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との間の子で、藤原光明子という名です。
のちに聖武天皇の皇后になりました。

 

長屋王の変後、天平元(729)年8月に藤原光明子を皇后にする詔が発せられます。

 

 天つ位に嗣ぎ坐すべき次(つぎて)と為て皇太子侍りつ。是に由りて其のははと在らす藤原夫人を皇后と定め賜ふ

 

皇族以外から立后された初見となります。
これ以後、藤原氏の子女を始めとして皇后になる先例となりました。

 

また光明皇后は、仏教の慈悲の思想に基づいて、貧しい人や孤児を救うための施設として「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善活動も行っていました。

 

称徳女帝

称徳女帝は、聖武天皇と光明皇后との間の皇女で、阿倍皇女という名です。
また、その前に孝謙女帝として即位し、その後重祚した女性天皇になります。

 

称徳天皇の時代において、皇室簒奪を目論んだといわれる弓削道鏡道鏡事件が起こりました。

 

道鏡事件とは、弓削道鏡を皇位に就かせるお告げが宇佐八幡大神より降ろされたことに対して、その真相を確認するため和気清麻呂は宇佐八幡宮に派遣されます。

 

神護景雲3(769)年7月11日に宇佐八幡宮にて和気清麻呂がご神託を受けました。

 

 我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。

 

その後、道鏡を皇位に就かせたいと考えていた称徳天皇によって、和気清麻呂を因幡員外介(いなばのいんげのすけ)に左遷し、さらに名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に配流させます。

 

しかし称徳天皇が崩御し、後ろ盾がなくなった道鏡は罪を問われ、下野国の薬師寺に左遷されることになりました。

 

桓武天皇

桓武天皇は、天智天皇の孫の光仁天皇と高野新笠妃との間の皇子で、山部王という名です。
生母の高野新笠妃は、百済の武寧王の子孫になります。

 

桓武天皇の時代になると、平城京から平安京に遷都し、以後明治になるまでの都となりました。
ここに奈良時代が終わり、平安時代の始まりとなります。

 

桓武天皇は、蝦夷や東北地方の平定のために、征夷大将軍として大伴弟麻呂を派遣し、副将軍の坂上田村麻呂が大きな戦果を挙げます。

 

 延暦十三年(七九四)正月朔(一日)条 征夷大将軍大伴弟麿に節刀を賜う。

 

これは、征夷大将軍の初例となります。

 

その後、蝦夷征討の任務を坂上田村麻呂に代わり、東北が平定されました。

 

 延暦十六年(七九七)十一月五日条 従四位下坂上大宿禰田村麻呂を征夷大将軍と為す。

 

節刀とは、天皇が出征する将軍に任命の証としてもつ刀で、天皇から軍事指揮権を委任された証といえるものです。

 

それまでは践祚という概念がなく即位のみでしたが、桓武天皇から践祚を経て即位することになりました。

 

践祚とは、先帝から位を受け継ぐことです。
その際に三種の神器が新帝に渡る儀が行われます。

 

それまでは殯(もがり)の葬送儀礼が長い時間をかけて行われており、それまでは即位出来ませんでした。

 

先帝崩?(ほうそ)から新帝即位までの期間が長く、政争などがしばしば起こることもあるため、その便宜として践祚と即位が分離されたと考えられています。

 

つまり、天皇個人としては死を免れることは出来ませんが、天皇霊は死ぬことがないことを意味することになります。

 

この記事で学べること

 

いかがだったでしょうか。

 

奈良時代は、皇親政治の体制の時代でもあり、とくに天皇や皇族が政治を行っていました。
この時代に、皇后が皇族ではないいわば民間から出るようになります。

 

また、和気清麻呂が宇佐八幡宮のご神託を受けたように、皇位に就くものは皇統にあるものでなければならないことを、ここで確認することが出来ます。

 

この記事のおすすめ本

旧皇族が語る天皇の日本史(PHP新書)(竹田 恒泰)

歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(中公新書)(笠原 英彦)

 
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