天皇は男系と言われるが、男系であれば誰でも良いのか?

宇多天皇

天皇は、万世一系つまり男系であれば、誰でも天皇になれるかのような報道や発言がなされることがあります。

 

確かに、天皇は男系によって皇統をつないできたことは事実です。
では、男系であれば天皇になれるというのは実は間違いです。

 

ここでは、天皇は、男系という要素以外に重要なものが2つあることをご紹介します。

 

 

 

 

男系の皇統について

男系とは

現在の天皇は男系によって皇統をつないできたのか、と言われればそのとおりです。
これを別の記事でもお伝えしていますが、万世一系といいます。

 

男系とは、父親を辿った場合にその祖先に行きつくものです。
女系とは、母親を辿った場合にその祖先に行きつくものです。

 

つまり男系の天皇とは、父方を遡ると神武天皇に行きつくということです。

 

では、男系であれば、誰でも天皇になれるのかと言われれば、それは違います。

 

神武天皇のY染色体理論

ここで神武天皇のY染色体理論というものがあります。

 

これは、細胞の核にある46個(23セット)の染色体のうち、男女の性差を決定する性染色体は、2個(1セット)あります。
女性はXX、男性はXYの性染色体をもちます。

 

子供は両親から1つずつの性染色体を受け継ぐため、母親のXと父親のXを受け継げば、女性(XX)となり、母親のXと父親のYを受け継げば、男性(XY)となる。
つまり父型の祖先を調べるには、このY染色体を辿ることになります。

 

このことから、天皇は、神武天皇のY染色体を受け継いでいるから正統性があるという理論になります。

 

ちなみに母方の祖先を調べるには、ミトコンドリアDNAであり、それは母親しか受け継がないため、それを辿ると母方の祖先がわかります。
人類の発祥の地はアフリカの類人猿と言われています。

 

この理論で行くと、神武天皇のY染色体を持っていれば、その子孫が正統な皇位継承者であることになってしまいます。
皇統を継ぐ以前に、君臣の別があるため、実際には、皇位継承権はありません。

 

そのため男系であれば、誰でも天皇になれるわけではないため、この理論自体が破綻しています。

 

男系の皇統において大切なこと

皇室は血によって成り立っていますが、血だけで成り立っているわけではありません。

 

つまり他にも条件があります。
それは、「君臣の別」と「五世の孫」です。

 

この2つを前提とした上で、男系継承されてきたのが、天皇です。

 

 

君臣の別

道鏡事件

奈良時代に、称徳女帝に取り入って出世した弓削道鏡という人物がいました。

 

道鏡は、太政大臣禅師に任命され、次に法王となって仏教の理念に基づいて政治を行います。
そこで宇佐八幡宮の神託に、道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるという神託があったと伝えられました。

 

しかし和気清麻呂がそれを確認するため宇佐八幡宮に赴いて、虚偽であったことを確認したため、道鏡が皇位に就くことはありませんでした。

 

 我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。

 

ちなみに道鏡は、「公卿補任」において、天智天皇の皇子である志貴皇子(しきのみこ)の落胤という道鏡皇胤説というものがあります。
仮にそれが事実だとした場合でも、弓削氏を名乗って臣下の位置にいて、皇統に属するものではないため、皇位に就くことは出来ません。

 

これが「君臣の別」です。

 

皇別摂家

今の皇室には女子が多く男子が少ないことから皇位継承者が少ないといわれますが、皇別摂家を入れると100人以上いると言われることがあります。

 

そもそも皇別摂家とは、何か。

 

皇別摂家とは、皇族を養子に迎え入れた摂関家のことをいいます。
江戸時代に摂家を相続した皇族は、次の3人です。

 

後陽成天皇の第4皇子が、近衛信尋
後陽成天皇の第9皇子が、一条昭良
閑院宮直仁親王(東山天皇の第6皇子)の第4王子が、鷹司輔平

 

この3人がそれぞれ摂関家である近衛家、一条家、鷹司家を相続しました。

 

現在の皇別摂家としては次のとおりとなります。

 

・近衛信尋の子孫
 常磐井家(真宗高田派法主、旧男爵)
 近衛家(旧子爵、公爵近衛家の分家)
 水谷川家(旧堂上格、旧男爵)

 

・一条昭良の子孫
 醍醐家(旧堂上、旧侯爵)
 南部家(旧盛岡藩主、旧伯爵)
 佐野家(旧伯爵)

 

・鷹司輔平の子孫
 徳大寺家(旧堂上、旧公爵)
 徳大寺家(旧男爵、公爵徳大寺家の分家)
 東儀家(樂家)
 梶野家(旧永世華族、旧男爵)
 高千穂家(英彦山神宮宮司、旧男爵)
 住友家(旧財閥、旧男爵)
 山本家(旧堂上、旧子爵)
 北河原家(旧堂上格、旧男爵)
 千秋家(旧熱田大宮司、旧男爵)
 華園家(真宗興正派門主、旧男爵)
 中院家(旧堂上、旧伯爵)
 室町家(旧堂上、旧伯爵)

 

例えば、戦前の内閣総理大臣だった近衛文麿は、後陽成天皇の男系子孫となります。
では、近衛文麿が天皇になれたのかといえばなれません

 

 

五世の孫

五世の孫という先例

五世の孫は、「ごせいのそん」と読みます。
五世の孫とは、皇位継承しなかった親王家は五世の孫までとして臣籍降下する原則をいいます。
これは継体天皇の先例を初見とするものです。

 

つまり天皇の直系の男系子孫であったとしても、皇族ではなくなります。

 

例えば、平将門は桓武天皇の五世の孫です。
平将門は、桓武天皇の曽孫の高望王が臣籍降下して、平高望を名乗りますが、その孫に当たります。

 

平将門は、関東で平将門の乱を起こします。
その際に、京都の朱雀天皇を「本皇」として、自らを「新皇」と名乗って、東国独立政権を立てようとしますが、鎮圧されます。

 

平将門は、自身が桓武天皇の五世の孫として、「新皇」と名乗りますが、そもそも皇族でもなければ皇位継承資格もありません。

 

平氏政権を樹立した平清盛は、辿っていけば桓武天皇に行きつくように、男系子孫です。
また、白河法皇の御落胤説もありますが、どちらにせよ皇族ではないため、男系子孫といえども皇位継承資格はありません。

 

もう1つ例を挙げます。
足利義満は、清和源氏となります。
清和天皇の十一世です。
すでに五世の孫から外れています。

 

しかし、当時の天皇だった後円融天皇とは、母同士が姉妹の従妹です。
その関係もあり、後円融天皇へ敬意を払うどころか徹底的に天皇の権威を失墜させました。

 

ただ、それでも足利義満が天皇の権威に代わることは出来ません。
これは、君臣の別で、越えられないか壁があるという意味です。

 

 

「君臣の別」の例外

元皇族が天皇になった例

宇多天皇は、光孝天皇の第7皇子として誕生します。
しかししばらくすると臣籍降下して、定省(さだみ)親王から源定省として源氏の姓を賜ることになりました。
いわば元皇族です。

 

しかし任和3(887)年に光孝天皇の発病によって、藤原基経が皇位継承者の人選として、臣籍降下した源定省に親王宣下し、その後皇太子にしました。

 

旧皇族が天皇になった例

醍醐天皇は、宇多天皇の第1皇子として誕生します。
宇多天皇が、定省親王から源定省として臣籍降下しますが、その頃に生まれたのが、源維城(これざね)、後の醍醐天皇でした。
いわば旧皇族です。

 

宇多天皇が皇籍復帰したのち、息子の維城も皇籍に列することになり、親王宣下し敦仁(あつぎみ)の名を与えられ親王になりました。

 

皇族から臣籍降下し、皇籍復帰した例

鎌倉幕府第七代将軍となった惟康(これやす)王は、征夷大将軍に就任したのち臣籍降下して、源惟康として源氏の姓を賜ることになりました。

 

しかし、後に幕府の要請によって皇籍復帰し、親王宣下され惟康親王となりました。

 

もう1例挙げます。
伏見宮貞致親王は、幼少期に養子に出されることになり、その時には安藤長九郎と名乗っていました。
しかし、伏見宮家当主や兄弟が立て続けに薨去し、断絶の危機に直面しました。
そこで安藤家の働きかけもあり京都所司代が、安藤長九郎を伏見宮家の落胤である判定します。
そして安藤長九郎は、皇籍復帰し、親王宣下され伏見宮貞致親王となり、第13代当主になりました。

 

 

「五世の孫」の例外

世襲親王家という先例

世襲親王家は、四つの親王家である、伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮を指します。
その中で、一番古いのが、伏見宮家になります。

 

伏見宮家は、北朝第3代崇光天皇の第1皇子栄仁親王を初代とします。

 

そして、文安4(1447)年に後花園天皇が、父である伏見宮貞成親王に太上天皇号を送ります。
これを後崇光院といいます。

 

承久の乱の後高倉院以来の、不登極帝の二例目となります。
そして、後花園天皇の弟である貞常親王が継いでいた伏見宮家を、「世襲親王家」として「五世の孫」の例外としました。

 

それから、昭和22(1947)年にマッカーサーによって臣籍降下させられ、現在は民間人となっています。

 

伏見宮以外の3つの世襲親王家について

桂宮は、正親町天皇の第1皇子である誠仁親王の第6皇子である智仁親王を祖とします。

 

そして明治14(1881)年に第12代当主の淑子(よしこ)内親王の薨去により断絶することになりました。
この淑子内親王をもって、女性の内親王家の先例とみなすことが出来ます。

 

有栖川宮は、後陽成天皇の第7皇子の好仁親王を祖とします。
後水尾天皇の第8代皇子の良仁親王が、有栖川宮の養嗣子として第2代当主となりますが、後に後西天皇として践祚することになりました。

 

そして大正2(1913)年に第10代当主の威仁(たけひと)親王の薨去により断絶することになりました。

 

閑院宮は、東山天皇の第6皇子の直仁親王を祖とします。
第6代典仁(すけひと)親王の第6皇子の兼仁(すけひと)親王が、光格天皇として践祚し、現在の皇統に繋がることになります。

 

また光格天皇は、父である典仁親王に、太上天皇の尊号を贈ろうとしましたが、当時の幕府の反対にあい贈ることは出来ませんでした。
これを尊号一件といいます。

 

のちに、明治17(1884)年に明治天皇の高祖父にあたることから、慶光(きょうこう)天皇の諡号が贈られることになりました。

 

承久の乱の後高倉院以来の、不登極帝の三例目となります。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

男系であれば誰でも天皇になれるかのような発言をする人がいます。
しかし皇位継承の原則として「君臣の別」と「五世の孫」があります。

 

そしてその例外もまたあるということで、単純ではありません。

 

 

この記事のおすすめ本

国民が知らない 上皇の日本史(祥伝社新書)(倉山 満)

旧皇族が語る天皇の日本史(PHP新書)(竹田 恒泰)


 
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