江戸時代において皇室の成文法が作られ制限されることになりますが、その時天皇は何をしていたのか

光格天皇

江戸時代は、慶長8(1603)年に徳川家康が征夷大将軍に任官し、慶応3(1868)年の王政復古大号令までの期間です。

 

この時代の天皇は、後水尾天皇から孝明天皇であり、その中の代表的な天皇をご紹介していきます。

 

 

 

 

江戸時代の天皇とは

禁中並公家諸法度

禁中並公家諸法度は、慶長20(1615)年に、二条城にて大御所の徳川家康、二代将軍徳川秀忠、前関白二条昭実の3名の連署をもって公布されました。

 

いわば、徳川幕府が朝廷とくに天皇に向けて出した成文法です。
徳川家康は、天皇に頼ることなく天下統一を成し遂げたことから、相対的に朝廷の権威が弱まることになりました。
ようは、天皇の政治介入を禁止し、学問や伝統的な芸能だけをやることを強要したといえます。

 

 第一条 天子諸芸能の事、第一に御学問なり。学ばずんば則ち古道に明らかならず。而して能く政太平を致す者未だ之有らざるなりとは、貞観政要(じょうがんせいよう)の明文なり。寛平の遺誡(かんぴょうのゆいかい)には経史を窮(きわ)めずといえども、群書治要(ぐんしょちよう)を誦習すべしと云々。和歌は光孝天皇より未だ絶えず、綺語(きご)たりといえども、我が国の習俗なり。棄て置くべからずと云々、「禁秘抄」(きんぴしょう)に載せる所は御習学専要に候事。

 

禁秘抄は、順徳天皇が書いた有職故実の解説書です。
有職故実とは、朝廷の行事や法令、習慣などを集めた先例集になります。

 

天皇になるための帝王学として、これら学問や諸芸能は学んでいますが、それを成文化した内容です。

 

 

江戸時代の天皇とその他の人物

後水尾天皇

後水尾天皇は、後陽成天皇と関白近衛前久の娘の前子(さきこ)との間の第3皇子で、政仁(ことひと)という名です。

 

徳川幕府が開設され元和元(1615)年に禁中並びに公家諸法度が定められ、そして幕府の宗教政策として寺院諸法度が定められました。

 

この中で寛永4(1627)年に紫衣事件が発生します。
それはこの年の7月に幕府は、元和元(1615)年以降に紫衣勅許を受けた禅僧に対して取り消しを含む禁制を出しました。
そして手続不十分な綸旨が29通あり、「綸言汗の如し」とあるように、ひとたび発せられた綸旨は返上が出来ないため、知恩院の「宝庫」に収蔵されることになりました。

 

これによって朝廷の面目がつぶれ、後水尾天皇は激怒します。

 

その後、後水尾天皇は幕府に相談することもなくまた気づかれないように、寛永6(1629)年11月8日、節会の儀として公家が集められたときに後水尾天皇が譲位し、興子内親王が即位することになりました。

 

興子内親王は、後水尾天皇と徳川秀忠の娘である和子(東福門院)の第2皇女で、明正天皇になります。

 

女帝は未亡人か生涯独身という先例があります。
仮に徳川秀忠がかつての藤原氏のような外戚政治を行うにしても、その先例によって阻まれることになりました。

 

生涯独身の理由は、婿が皇室に入るのを防ぐことであり、皇族同士の結婚も許されませんでした。

 

伏見宮貞致親王

伏見宮貞致(さだゆき)親王は、伏見宮貞清(さだきよ)親王と少納言局の安藤定子との間の王子で、後に伏見宮第13代当主になります。

 

伏見宮家の元を辿ると南北朝時代の崇光天皇の皇子栄仁親王を祖として伏見宮家が作られています。

 

元々貞致親王は丹波国の母方の安藤家の養子に出され、その時は安藤長九郎と名乗っていました。
そこで「西陣埋忠」という鍛冶屋に弟子入りしています。

 

「西陣埋忠」は、平安時代に名工といわれた由緒ある刀鍛冶屋で、刀工の棟梁家でもありました。

 

伏見宮家は、立て続けに親王が薨去したことで断絶の危機に直面します。
そこで安藤家の働きかけにより京都所司代が確認したところ伏見宮の御落胤であることが認められました。

 

そして安藤長九郎から伏見宮貞致親王として皇籍復帰し、伏見宮家第13代当主になります。

 

明治に入ると伏見宮家の子孫と婚姻を進め、女系の形で明治天皇と繋がるようにしました。

 

後桜町女帝

後桜町女帝は、桜町天皇と関白二条吉忠の娘の舎子(いえこ)との間の第2皇女で、智子(としこ)という名です。

 

現在までのところ、女帝が八方十代であり、最後の女帝となります。

 

女帝擁立理由は、多くの場合、皇位継承予定者が幼年のため直ちに即位できない事情から、中継ぎ的な意味で女帝が即位して時間を稼ぐことになります。

 

この時は、甥の英仁親王が10歳になるまでの中継ぎとしての即位です。

 

後桜町女帝は、英仁皇太子のために君徳育成を行います。
そして明和5(1768)年に英仁親王が立太子すると、譲位し、後桃園天皇が即位しました。

 

しかし、後桃園天皇は、在位9年目で病死してしまいます。
そして後桃園天皇の子は、女御維子との間に生まれた欣子(よしこ)内親王1人しかいなかったため継嗣が不可能となりました。

 

そこで、天皇崩御の前に生母の一条富子と伯母の後桜町上皇が内談し、祐(さち)宮を養子にすることと、祐宮と欣子を親王宣下することなどの宸翰(手紙)によって結論が示されました。

 

つまり、血縁の遠い宮家から皇嗣を選ぶため、「親近親他に超え、天性聡明、至尊と仰ぐべき人体なり」(『広橋勝胤卿記』)との理由として、閑院宮家の祐宮は、兼仁(ともひと)親王で、後の光格天皇を立てることに決定します。

 

そして欣子を入内させることまで考え、君徳育成にも心配りしています。

 

光格天皇

光格天皇は、閑院宮典仁(すけひと)親王と岩室磐代(いわしろ)との間の第6皇子で、初めは師仁(もろひと)、のちに兼仁(ともひと)という名になります。

 

光格天皇が践祚即位するのは、3度目の皇統断絶の危機でした。
ここで選ばれたのは、閑院宮家から閑院宮直仁(かんいんのみやすけひと)親王の第6皇子であったのちの光格天皇でした。

 

閑院宮家は、東山天皇の皇子であった直仁親王が創設した宮家になります。
宮家創設に当って、新井白石が天皇を補完する家として徳川家宣に建言していました。
その閑院宮家がすぐさま天皇の補完として天皇に即位することになりました。

 

光格天皇は、後桃園天皇との血縁を考え、皇女である欣子内親王を皇后に迎え入れます。
その光格天皇以降の皇統が現在の今上天皇に繋がります

 

ます光格天皇の治世において、当時松平忠信が寛政の改革といういわばデフレ政策をやって、農民、庶民が飢饉で飢えてるような状況でした。
その状況に対して光格天皇は、幕府に対して今の失政をいさめます。

 

さらには文化8(1811)年に千島列島を測量していたロシア軍艦の艦長ゴローニンを捕縛するゴローニン事件が起こります。
その際に光格天皇は、幕府が行っている外政文書や外交交渉の経過を報告するようにしました。

 

幕府が行っている内政と外交に対して、君主が持つ本来の権利である「諮問権」を行使し、政治に関わるさなか尊号一件が起きます。

 

尊号一件は、光格天皇が天皇に即位したことによって、父親である典仁親王よりも位が上がってしまいました。
しかも禁中並公家諸法度において親王の序列が摂関家よりも下でした。

 

そこで光格天皇は、江戸幕府以前の先例にならい典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとします。
しかし時の老中松平定信は、徳川家康が定めた禁中並公家諸法度は、江戸幕府にとっての祖法であるとして反対しました。

 

そのため、この時には太上天皇の尊号が贈られることが出来なくなりました。

 

ここで時の将軍である徳川家斉も、父である一橋治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていました。
しかし尊号一件の対応によって、一橋治済の大御所の尊号も贈ることが出来なくなりました。

 

そのことから一橋治済と徳川家斉父子の怒りを買い松平定信は失脚します。

 

明治17(1884)年になり、典仁親王が明治天皇の高祖父にあたるということから、慶光天皇の諡号と太上天皇の尊号が贈られました。

 

ただし天皇に即位してはいないため、大統譜には記載されていません

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

おさらいをしておきます。

 

徳川家康は、天皇に頼ることなく天下統一を成し遂げたことで、それまでの武家勢力、朝廷勢力、寺社勢力の中でもっとも強い権力をもつことになりました。
その徳川幕府による天下泰平は平和な時代を謳歌することになります。

 

後水尾天皇の時代には、朝廷と幕府が険悪な時期となりましたが、それ以降は比較的良好な関係を築いています。

 

光格天皇の時代は、西欧列強が着々と日本に迫ってくる時代で、その時々の幕府の対応に対して意見を言うまでになりました。
そして幕府の権威が失墜していく中、天皇家の権威が高まっていくことになります。

 

その後幕末の政争を経て、近代の天皇が誕生することになりました。

 

 

この記事のおすすめ本

天皇の歴史6 江戸時代の天皇(講談社学術文庫)(藤田 覚)

武家と天皇 王権をめぐる相剋(岩波新書)(今谷 明)


 
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