平安時代は藤原氏が中心の政治、その時天皇は何をしていたのか!?

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平安時代は藤原氏が中心の政治、その時天皇は何をしていたのか!?

平安時代は、京都に平安京が置かれ、都としては以後明治になるまでそこに定着することになりますが、その始めの時代となります。

 

この時代の天皇は、桓武天皇から後鳥羽天皇であり、その中の代表的な天皇をご紹介していきます。

 

 

 

 

平安時代の天皇とは

摂関政治

 

院政政治

 

 

平安時代の天皇とその他の人物

嵯峨天皇

嵯峨天皇は、桓武天皇の第二皇子です。

 

嵯峨天皇といえば、南北朝時代に北畠親房という人物が書いた神皇正統記で、特筆されています。

 

この時の政治は藤原冬嗣、藤原緒嗣、源常らが行い、嵯峨天皇はいわば「君臨すれども統治せず」を体現し、政局が安定し平安文化が花開く平和な時代でした。

 

「君臨すれども統治せず」といえばイギリスになりますが、大憲章(マグナカルタ)が制定されたのは1215年で、ジョン王の時代です。
そこから、17世紀に入って清教徒革命と名誉革命を経て「君臨すれども統治せず」が形作られていきます。
それから約800年前に日本では「君臨すれども統治せず」を実践しました。

 

この時代に令外官として蔵人頭や検非違使が設置されました。
また怨霊への恐れから保元の乱の時期まで死刑が廃止されます。

 

受禅の天皇の詔をもって太上天皇となる初見は、嵯峨天皇です。

 

嵯峨天皇が823(弘仁14)年4月16日に位を淳和天皇に譲られたのに対し、同月22日新帝が詔して前帝の徳を頌し、太上天皇の尊号を上られたのを最初としています。

 

しかし譲位ののち尊号の儀が行われなかったとしても令の規定に従って太上天皇となります。
一条天皇は尊号の儀が行われず崩御、白河・後嵯峨天皇は譲位後尊号の儀以前に太上天皇の称を用いられています。

 

清和天皇

清和天皇は、文徳天皇の第4皇子になります。

 

即位したのが9歳であったため、外祖父である藤原良房が太政大臣として執政を行います。
のちに摂政と呼ばれるようになるのは、貞観8(866)年8月19日に摂政宣下の勅が出されます。

 

それによって、藤原良房が臣下で始めて摂政になりました。
人臣摂政の始めでもあり、幼帝の始めでもあります。

 

摂政宣下の勅にある太政大臣とは、藤原良房のことです。
清和天皇が元服するまでの期間、天皇の後見する役目を担うことになりました。
この時から、藤原氏が外戚として政治の実権を握る時期となり、摂関政治の始まりとなります。

 

陽成天皇

陽成天皇は、清和天皇の第1皇子になります。
弱冠9歳で即位することになり、母の兄である藤原基経が摂政となりました。

 

陽成天皇は、乱行を重ね廷臣を殺害したという話もあり、そのこともあってか自分は病気のため譲位の意向をほのめかし、譲位となりました。
実際には、基経の影響があるかは判然としていません。

 

光孝天皇

光孝天皇は、仁明天皇の第3皇子になります。
先帝の陽成天皇の時の摂政であった藤原基経が先帝の退位に伴い、皇位継承者の人選を行い、時康親王を擁立して即位しました。
そして即位後の元慶8(884)年6月5日、藤原基経へ宣命を下しました。

 

この宣命に準ずる先例はなく、また摂政とは異なり、政治に関する新たな職務を委任したものとされており、関白の初見ともされています。

 

宇多天皇

宇多天皇は、光孝天皇の第7皇子で、しばらくすると臣籍降下して、定省(さだみ)親王から源定省として源氏の姓を賜ることになります。
いわば元皇族になります。
しかし任和3(887)年に光孝天皇の発病によって、藤原基経が皇位継承者の人選として、臣籍降下した源定省を親王に復帰させ、皇太子にしました。

 

宇多天皇即位後の仁和3年11月、藤原基経へ詔を下しました。
ここに出てくる「関(あずか)り白(もう)す」は関白の語源であり、関白という語の初見とされています。
起源は漢書になります。

 

この後、宇多天皇と藤原基経に阿衡の紛議が起こりますが、それも収まり仁和4年に宣命を下しました。

 

関白の成立過程がいつなのかは、色々な説がありますが、始めて関白の地位に就いたのは藤原基経になります。

 

関白藤原基経の死後、宇多天皇が親政し政治改革が推し進められ、後に寛平の治と呼ばれるようになりました。

 

この時に、菅原道真を登用し、皇位継承問題についての発言が許されるなど信頼も厚かったです。
そして最後の遣唐使となりますが、唐では内乱状態等を理由に遣唐使を廃止させる建議をし、廃止となりました。

 

醍醐天皇

醍醐天皇は、宇多天皇の第1皇子で、臣籍降下した源定省の頃に生まれた天皇で、源維城(これざね)といいました。
いわば旧皇族になります。
宇多天皇が皇籍復帰したのち、息子の維城も皇籍に列することになり、親王宣下し敦仁(あつぎみ)の名を与えられ親王になりました。

 

これは、旧皇族が皇籍復帰し、天皇になった先例といえます。
宇多天皇の訓示として寛平御遺誡を受けて藤原時平と菅原道真を左右大臣として政務を任せ、形式上は天皇親政として、後に延喜の治と呼ばれる善政を行いました。

 

花山天皇

花山天皇は、冷泉天皇の第1皇子になります。
右大臣藤原兼家の息子の道兼に勧められて出家してしまいます。
藤原道兼が出家を勧めたのは、皇太子の懐仁親王が即位することによって、父の兼家が外戚となるからです。

 

ここで異例の皇位継承手続きとなりました。
まず天皇の出家によって神器をひそかに皇太子のもとに移して譲位することになります。
この譲位は異例で、本来は先帝の譲位の宣命によって皇位が継承されます。
しかし兼家は、あたかも花山天皇が在位しているかのようにして宣命を作成しました。

 

これは後に如在の儀といわれます。

 

この如在の儀の成立によって、それまで天皇崩御後に殯儀礼が盛大に行われていましたが、これ以後は形式上天皇が崩御しても生きているものとして扱われるものとなりました。

 

イギリスに、「国王は死なず」(the King never dies)という言葉があります。
これは国王が崩御したら直ちに王位継承者が即位をすることになりますが、すでにこの時代に「国王は死なず」が定着することになります。

 

三条天皇

三条天皇は、冷泉天皇の第2皇子になります。
この時代になりますと藤原権勢の最盛期であり、「小右記」には、「王道弱く臣威強し」としての描写もあります。

 

皇后は藤原道長の次女妍子(けんし)であり、重い眼病を患っていました。
そのこともあり藤原道長は、政務を補佐せず、眼病を理由に退位を促していました。

 

三条天皇は藤原道長に抵抗するが、眼病が進み禅譲を余儀なくされます。
そして9歳の敦成親王が即位し、藤原道長は摂政となります。
しばらくして三条天皇は崩御しました。

 

後一条天皇

後一条天皇は、一条天皇の第2皇子で、藤原道長の長女彰子が母になります。

 

9歳で天皇に即位し、皇后は道長の三女の威子(いし)が立てられ、藤原道長の娘から皇后、皇太后、太皇太后の三后が実現しました。
そして後一条天皇の摂政となりますが、わずか1年で子の頼道に摂政を譲り、太閤として摂政を後見する立場に立ちます。
藤原道長の有名な望月の歌はこの頃詠まれます。

 

また藤原実資が書いた日記に小右記があります。
実資は、道長を批判的に書いています。

 

それは、「太閤(道長)の徳(権力)、帝王の如し」は皮肉を込めているといえます。

 

この時代は藤原摂関政治の最盛期となる時代ですが、なぜ中国やヨーロッパのように自らが天皇ないしは王にならなかったのか。
これは、前例として蘇我氏や道鏡のような事例があり、危険を伴うことになることから、天皇の権威を利用して政治を行う方が収まりがいいためといえます。
太上天皇の尊号の事例ではありませんが、後一条天皇が皇太子を辞退した敦明親王に対し、太上天皇に準ずる小一条院の号を宣下された特例がありました。

 

後三条天皇

後三条天皇は、後朱雀天皇の第2皇子になります。
即位前は、生母が藤原氏の出身でないことから関白藤原頼道に礼遇され、即位も消極的でした。

 

しかし治暦4(1068)年になると先帝後冷泉天皇の崩御に伴い即位することになります。
藤原頼道が引退し関白が教通に移った機を見計らい親政を行う姿勢を鮮明にし、その際に頼道に媚びていた人達も政治登用しました。

 

そして延久の荘園整理令の実施に伴い記録荘園券契所が設置されます。
これは荘園の所有権をめぐる公験(くげん)の審査を朝廷で審査するもので、とくに藤原氏についても厳しく対応することとし、経済基盤である荘園を基準値まで没収されることになり、朝廷の経済基盤確保とともに藤原摂関政治の陰りへと繋がりました。

 

 

平安時代後期院政時代の天皇

白河天皇

白河天皇は、後三条天皇の第1皇子です。

 

白河天皇は、後三条天皇の譲位によって即位しますが、天皇の治世よりも譲位して院政を始めたことが有名で、白河天皇の第2皇子である善仁(たるひと)親王に譲位し、院政を敷くことになります。

 

まず院政はすべての上皇に出来るわけではありません。
天皇家の家長である上皇、これを治天の君といいますが、それが院政を敷いていました。

 

奈良時代にも上皇になって国政の一端に関与した時期はありましたが、それは院政に含まれません。
摂関政治時代であれば、天皇の母方の祖父が権力を握っていましたが、今度は天皇の父方の祖父が権力を握ることになります。

 

白河院政は強力な政治を行い、出来ないものといえば、「賀茂川の治水」、「すごろくの賽の目」、「比叡山の山法師」をもって天下の三不如意として、それ以外は出来るという意味で平家物語に表現されています。

 

白河上皇の院政は、堀河、鳥羽、崇徳の3代40年以上に及び、院命が出なければ、関白だけで践祚の実行をすることが出来なくなるなど、この時代によってそれまでの先例が変わることになります。

 

また院政を行う上皇の出す院宣が、天皇が出す文書である綸旨に替わって最高の文書となり、上皇の意思が詔や勅と称されるようになります。

 

鳥羽天皇

鳥羽天皇は、堀河天皇の第1皇子です。

 

鳥羽天皇の時代は白河上皇の院政時代で、白河上皇の曾孫にあたる顕仁(あきひと)親王に譲位するよう促され、譲位することになります。

 

鳥羽天皇は上皇となりますが、白河上皇の本院に対して新院と呼ばれます。

 

白河上皇が、77歳で崩御し、鳥羽上皇が院において政務を行うことになり、この時の天皇が崇徳天皇で、鳥羽上皇との確執から譲位することになりました。
鳥羽上皇の院政は、崇徳、近衛、後白河の3代28年に及ぶことになり、摂関の任免も関与するようになります。

 

後白河天皇

後白河天皇は、鳥羽天皇の第4皇子です。

 

後白河天皇の時代は鳥羽上皇の院政時代になりますが、保元元(1156)年になると鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が起こります。

 

平清盛や源義朝らの活躍により後白河天皇側が勝利することになり、崇徳上皇は讃岐へ流されることになりました。
その後3年で皇子の二条天皇に譲位し、上皇となって院政を開始します。
しかし二条天皇は上皇による院政ではなく天皇による親政を考えており、後白河院政派と二条親政派の対立となります。

 

二条天皇に続き六条天皇が即位しますが、平清盛らの協力を得て退位させ、二条天皇の弟の高倉天皇を即位させます。
それにより後白河上皇方の権力が確立しますが、平氏との間に軋轢が生じることになります。そして平氏打倒のため寺社勢力と提携するために動きます。治承3(1180)年になると平清盛らによって後白河法皇は幽閉されることになります。
これを主君押し込めといいます。

 

そして安徳天皇が即位することになり、平清盛が外祖父として藤原氏のような権力を持つことになります。安徳天皇の即位に伴って皇位の望みを絶たれた以仁王は源頼政らとともに平家を打倒するため挙兵することになります。
平家側の戦局が劣勢に立たされ、平清盛も病気を患い亡くなる中、後白河法皇は院政を再開することになります。
その後木曽義仲によって再度幽閉されることになりますが、源義経が上洛し木曽義仲を討ち、再度の院政を開始します。

 

後白河法皇は、源義経らに命じ平氏追討にあたらせ、文治元(1185)年に壇ノ浦で平氏を滅亡へと追いやることになりました。
その後、源頼朝と義経の間に軋轢が生じることになり、後白河法皇も頼朝追討の宣旨を出したことで対立することになりますが、奥州藤原氏の討伐が契機となり、正常化することになります。
しかし後白河法皇、源頼朝の征夷大将軍就任を拒否した天皇と言われてます。

 

色々な説がありますが、征夷大将軍は臨時の職であり、君主に代わって統帥権そして軍事裁判権を委任されたものになります。
また幕府とはそのままの意味であれば、軍事上に幕を張った陣地、そこで指揮したり、軍事上の違法行為があれば裁かれたりもしました。
それが転じて幕府となります。

 

仮に征夷大将軍に任命した場合、そこに武家政権が誕生し大きな勢力となることから拒否したと考えられています。
源頼朝が征夷大将軍になるのは、後白河法皇の崩御によって、後鳥羽上皇に治天の君が変わったことで就任することになり、ここで正式に鎌倉幕府の成立となります。
最近では、守護と地頭が全国に設置された1185年が鎌倉幕府の成立と言われていますが、事実関係のみで成立になってしまえば、室町幕府も江戸幕府も成立がおかしくなります。
すべての統一として武家政権の長は征夷大将軍であり、その役職に就任された時で幕府の成立といえます。

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか。

 

おさらいをしておきます。

 

平安時代は、京都に都が置かれて様々な先例を作る時代となりました。

 

平安前期と中期では、藤原氏による摂関政治の時代であり、後期になると武家が台頭し、また院政を行う時代でもありました。

 

 

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