8方10代といわれる女性天皇は中継ぎだけの存在だったのか、それとも…

推古女帝

8方10代の女性天皇がいました。
そして女性天皇はしばしば中継ぎのために存在するといわれます。

 

ここでは、8方10代の女性天皇が中継ぎだけの存在だったのか、それとも違う役割もあったのかをご紹介します。

 

 

 

 

女性天皇とは

女性天皇の先例について

日本の歴史上、女性天皇は8方10代として、次のとおりとなります。

 

推古天皇、皇極天皇、斉明天皇(皇極天皇の重祚)、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)、明正天皇、後桜町天皇

 

重祚とは、「ちょうそ」と読みますが、再即位のことです。

 

ちなみに、中華を古くからの手本としてきた日本ですが、中華皇帝は原則として、女帝を認めない国です。
しかし日本は8方10代の女性天皇がいたのは、単なる例外とはいえません。

 

女性天皇の前身について

女性天皇は、推古天皇が初見となります。

 

しかしその前の時代に神功皇后や飯豊青皇女が、「大王の代行者」として「臨朝秉政」(りんちょうしょうせい)を行う先例がありました。

 

別の見方としては、神功皇后が後の応神天皇を身ごもっていたことから、皇后として摂政の立場にあったこと、飯豊青皇女は近親(甥か弟)が即位するまでの摂位の立場にあったとしてその役割を果たしたともいえます。

 

どちらにせよ、女性天皇に近い役割ではありますが、正式に即位した確証がありません。

 

それらの先例を元にして蘇我馬子が敏達天皇の皇后でもある額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を天皇にするという新儀をしました。

 

それよりも前の時代であれば、三世紀の魏志倭人伝にみえる邪馬台国の女王が、動乱を鎮めるために平時であれば男王であるところを非常時を打開するため女王を擁立したとみれれます。
その理由は、「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす」として、巫女(シャーマン)的な能力があったためです。

 

 

女性天皇の役割と条件

女性天皇の役割

女性天皇の役割は、次の天皇の中継ぎとしての天皇です。
つまり次の天皇が成人するまでの間、天皇になるというものです。

 

そしてその次の天皇に譲位出来る場合には譲位します。

 

女性天皇になる条件

女性天皇になる条件としては、未亡人か未婚である必要があります。

 

そして女性天皇になった後は、生涯独身でいなければなりません。

 

これが先例です。

 

未亡人が女性天皇になれるというのは、おそらく女性天皇の前身の「大王の代行者」の意味合いがあったと思われます。
また神功皇后や飯豊青皇女を仮に女性天皇とする場合、前者は未亡人であり、後者は未婚で、その後は独身でもありました。

 

 

女性天皇は中継ぎだけの存在か

推古女帝

推古女帝は、欽明天皇と蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)との間に生まれ、額田部氏に養育されたため、額田部皇女といわれます。
異母兄に敏達天皇、同母兄に用明天皇、異母弟に崇峻天皇がいました。

 

敏達天皇の皇后となり、その崩御によって用明天皇が次の天皇になりました。
用明天皇の代において、異母弟である穴穂部皇子(あなほべのみこ)が「天下を取らんと欲」し、額田部皇太后に皇位を要求し、その後も皇位を狙う行動をしました。

 

穴穂部皇子と物部守屋らが攻め滅ぼされ、次の天皇が崇峻天皇になりました。
崇峻天皇が外伯父の蘇我馬子と対立したことで、暗殺されることになります。

 

その後の難局を切り抜けるために、額田部皇太后が次の天皇として擁立され即位することになりました。
実子の竹田皇子はすでに亡くなってしたことから、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として迎えて、摂政に任命されます。

 

聖徳太子は、遣隋使を送って対等な関係の外交努力を行い、皇室中心の政治体制を構築するため、冠位十二階や十七条憲法を制定、また「天皇記」や「国記」を編纂しました。

 

蘇我馬子が亡くなり、推古女帝の後の皇位継承者を決めるため、田村皇子と山背大兄皇子が後継候補になりました。
しかし蘇我馬子の子蝦夷は、田村皇子を後継者に指名していることから、次の天皇は田村皇子のちの舒明天皇を擁立することになりました。

 

皇極・斉明女帝

皇極・斉明女帝は、舒明天皇の皇后だった宝皇女です

 

皇極女帝は、舒明天皇の崩御後、後継候補として中大兄皇子、異母兄の古人大兄皇子、山背大兄皇子などがいましたが、天皇として擁立されることになりました。
内政外交としては、大臣の蘇我蝦夷が権勢を振るい、子の入鹿は父親以上に専権を振るっており、皇室の権威に対抗する勢いがありました。

 

また蘇我入鹿は、山背大兄皇子を攻め滅ぼし、後継候補の有力者として、甥の古人大兄皇子を皇太子に立てようとしていました。
しかし、中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂らによって蘇我本宗家を打倒する乙巳の変を起こしました。
このときに、皇極女帝は、自ら皇位を退くという新儀をしました。

 

ここで中大兄皇子は天皇にならず、母方の叔父にあたる軽皇子が孝徳天皇として即位しました。
その後蘇我氏系の古人大兄皇子が討ち滅ぼされ、大化改新を推し進めることになります。

 

大化改新は中華の法制度を継受する形で、中央集権的な国家形態とし、新しい元号として「大化」の元号を制定させました。

 

孝徳女帝が病没すると、皇太子の地位にあった中大兄皇子が天皇になるわけではなく、高齢の皇極皇祖母尊(すめみおやのみこと)が斉明女帝として即位することになりました。
これを重ねて宝祚(皇位)につくことから重祚といいます。

 

ここで朝鮮では百済が、唐と新羅に挟撃され、日本に救援を要請します。
日本にとって百済は友好国であり、超大国である唐に対する緩衝地帯でもあります。

 

そこで、斉明女帝自ら、中大兄皇子や大海人皇子とともに、大軍を率いて九州へ出陣します。
しかし途中斉明女帝が急逝することになり、中大兄皇子が称制の形で、7年間皇太子のまま天皇に代わって大政を行うことになります。

 

その後白村江の戦いに敗北し、百済という緩衝地帯を失い、国内の防衛体制を固めることになりました。

 

持統女帝

持統女帝は、中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂の娘の蘇我遠智娘(おちいらつめ)との間に生まれました。
その後大海人皇子の妃となって、草壁皇子が生まれています。

 

大友皇子と大海人皇子との皇位継承争いとなった壬申の乱の末、大海人皇子が勝利し、天武天皇となりました。
そして子の草壁皇子を皇太子とします。

 

天武天皇の病が重くなると、皇后が皇太子と共同執政の勅命を受けます。
天武天皇が病没すると、皇太后として自ら大政を行う称制の形をとりました。

 

ここで、後継候補である草壁皇太子がその子である軽皇子(かるのみこ)を残して病没します。
それによって、後継候補がいなくなったことで、持統女帝が即位することになりました。

 

持統女帝は、直径継承を貫徹するため草壁皇子を後継候補と考えていましたが、早逝してしまったため、その子である軽皇子に皇位継承させようと考えます。
そして軽皇子が成長したことで持統女帝が譲位し、文武天皇として即位することになりました。

 

譲位した持統女帝は、初の「太上天皇」の尊号が贈られることになります。

 

元明女帝

元明女帝は、中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂の娘との間に生まれ、阿閉(あへ)皇女と名付けられました。

 

天武天皇の皇統として、皇后の持統女帝、孫の文武天皇へと継承されましたが、文武天皇は在位十一年目にして崩御してしまいます。
ここで直系継承出来るのが、文武天皇と藤原宮子(藤原不比等の娘)との間に生まれた首(おびと)皇子一人だけで、しかもまだ若い年齢でした。

 

そこで首皇子の中継ぎ役として即位したのが、元明女帝です。

 

中継ぎ役としてではありますが、在位中は、和同開珎の鋳造や平城京への遷都がありました。

 

元正女帝

元正女帝は、天武天皇の皇子の草壁皇子と元明女帝との間に生まれたのが日高内親王です。

 

元明女帝が首皇太子の中継ぎ役として在位していますが、すでに老いを感じるようになってもなお、首皇太子は若すぎるとして、日高内親王が元正女帝として中継ぎ役となります。

 

二人の中継ぎ役が立てられたのは、皇族同士の婚姻が当たり前だった時代に、外祖父の藤原不比等が政治的地位を固め、首皇子の妃として藤原光明子が立てられました。
その首皇太子の即位に異議を唱える声があったことから、ここまで慎重になったといえます。

 

その後後継候補として自負していた長屋王と藤原氏を外戚とする首皇太子に対抗意識をもちつつも、首皇太子が聖武天皇として即位することになります。
やがて長屋王と藤原氏との対立から長屋王の変が起こり、長屋王は自害に追い込まれることになりました。

 

孝謙・称徳女帝

孝謙女帝は、聖武天皇と光明皇后との間に生まれ、阿倍皇女と名付けられました。

 

聖武天皇と藤原光明子との間に、基(もとい)王が生まれ、藤原氏側としては待望の皇子でしたが、早逝してしまいます。

 

そして、聖武天皇と県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ)との間に、安積(あさか)親王が生まれ、藤原氏側が危機感を抱きます。

 

そこで、藤原光明子を皇后にします。
藤原光明子は、人臣皇后の初例でもあり、大宝・養老律令の規定を破って藤原氏側が強引に皇后にしました。

 

そして天平10(738)年に、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた阿倍内親王を皇太子として擁立します。
女性皇太子自体、非常措置です。
孝謙女帝は、中継ぎではない女帝しかも皇族でない母から生まれた女帝として出現しました。

 

そして聖武天皇は、阿倍皇太子に譲位します。
女帝の先例として、結婚せず生涯独身で通すことが前提であり、直系の皇嗣を得ることも出来ません。

 

その後、聖武太上天皇の遺詔によって、道祖(ふなど)王が皇太子に立てられますが、藤原氏の圧力で廃退子となって、代わりに大炊(おおい)王が皇太子に定められます。
そして孝謙女帝は、大炊皇太子に譲位します。

 

淳仁天皇は、光明皇太后の信任が篤い甥の藤原仲麻呂の策謀と言われています。
この治世において、藤原仲麻呂は、官名を唐風に改めるなど、権勢を振るうことになりました。

 

天平宝字4(760)年に光明皇太后が崩御すると、孝謙太上天皇は次第に主体的な言動を示すようになります。
また自身が病気になった際に、禅師弓削道鏡に出会ってから、彼を重用するようになります。

 

孝謙太上天皇と道鏡は、淳仁天皇と藤原仲麻呂に反発を強め、窮地に陥った藤原仲麻呂は反乱を企てるものの、制圧されました。

 

そして、淳仁天皇を廃位させ淡路へ流し、自ら称徳女帝として復位します。

 

称徳女帝は、弓削道鏡の重用もあり、仏教に傾倒します。
とくに道鏡を特別優遇し、「法王」の位まで授けられ、それから天皇になりたいと考えることになったと思われます。
しかし、和気清麻呂の働きによって、道鏡の野望が挫かれました。

 

神護景雲4(770)年に、称徳女帝が病没すると、女帝の異母妹にあたる井上内親王を妃とする白壁王を皇太子に立て、光仁天皇が誕生しました。

 

明正女帝

明正女帝は、後水尾天皇と徳川和子(まさこ)との間に生まれました。
徳川将軍家を外戚とする唯一の天皇です。

 

徳川将軍家としては、蘇我氏や藤原氏同様に朝廷において外戚政治を行うために、徳川秀忠とお江与との間に生まれた和子を入内させます。

 

後水尾天皇と和子の間には、興子(おきこ)が生まれます。

 

そして後水尾天皇と幕府との間に紫衣事件が起き、朝幕関係が悪化します。
天皇は、幕府への対抗手段として譲位を訴えます。

 

また後水尾天皇と和子との間に誕生した皇子が生まれますが、早逝してしまい、中々譲位すると言い出しても認めません。

 

幕府側としては、皇子が誕生するまで譲位を引き延ばすことを考えますが、それを見越した後水尾天皇は、寛永6(1629)年に突然興子内親王に譲位してしまいます。

 

そこで誕生したのが、明正女帝です。

 

明正女帝に譲位の際、皇子が誕生したのち譲位することを示し、寛永20(1643)年に譲位します。
明正女帝も先例に従い、生涯独身を通しました。

 

後桜町女帝

後桜町女帝は、桜町天皇と二条舎子との間に智子(としこ)内親王として生まれました。

 

甥の英仁親王が10歳になるまでの中継ぎとしての即位です。

 

後桜町女帝は、英仁皇太子のために君徳育成を行います。
英仁皇太子に譲位し、後桃園天皇の治世になりますが、在位9年目で病死してしまいます。

 

そして後桃園天皇の子は、女御維子との間に生まれた欣子(よしこ)内親王1人しかいなかったため通常の継嗣が不可能となりました。

 

そこで、天皇崩御の前に生母の一条富子と伯母の後桜町上皇が内談し、祐(さち)宮を養子にすることと、祐宮と欣子を親王宣下することなどの宸翰(手紙)によって結論が示されました。

 

つまり、血縁の遠い宮家から皇嗣を選ぶため、「親近親他に超え、天性聡明、至尊と仰ぐべき人体なり」(『広橋勝胤卿記』)との理由として、閑院宮家の祐宮は、兼仁(ともひと)親王で、後の光格天皇を立てることに決定します。

 

そして欣子を入内させることまで考え、君徳育成にも心配りしています。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

女性天皇の役割は、中継ぎと言われればそれまでの部分もあるかもしれません。
しかも女性天皇になれば、生涯独身を強いられるという先例もあります。

 

しかし、後桜町女帝のように、過去と変わらない未来を作るために、皇太子に対して教育することや、継嗣が途絶えることになれば、先例に基づいた上での知恵を絞って対応しました。

 

 

この記事のおすすめ本

皇位継承 増補改訂版(文春新書)(高橋 紘、所 功)

歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(中公新書)(笠原 英彦)]


 
この記事はお役に立ちましたでしょうか。
この記事が誰かの役に立ちそうだと感じて頂けましたら、下のボタンから共有をお願い致します。

    このエントリーをはてなブックマークに追加  

昭和12年学会
ページの先頭へ戻る