武家の世の始まり、鎌倉時代における天皇はどのような役割を持っていたのか

亀山天皇

鎌倉時代は、源平合戦ののち、関東に幕府が置かれます。

 

そして源頼朝は、後白河法皇によって征夷大将軍の宣下が認められませんでした。
しかし後白河法皇が崩御し、後鳥羽上皇によって認められることになり、それをもって鎌倉幕府の成立へと至ります。

 

この時代の天皇は、後鳥羽天皇から後醍醐天皇であり、その中の代表的な天皇をご紹介していきます。

 

 

 

 

鎌倉時代の天皇とは

鎌倉幕府

鎌倉幕府は、源頼朝が東国に武士による政権を樹立し、東国における荘園などを朝廷に保証させました。
そして、文治元(1185)年に朝廷から守護と地頭の設置を認められ、軍事、警察、土地の支配権を公認されます。

 

建久元(1190)年に源頼朝は、右近衛大将に任官します。
官位は高いものの、近衛大将という役職の性格上、京都にいなければならないことから、すぐに辞任することになりました。

 

源頼朝は、東国武士の棟梁という地位と守護・地頭の地位そして行政機関を設置することから、臨時の官職ではなく、奥州藤原氏の鎮守府将軍のような地位が相応しいと考えます。

 

そこで、征夷大将軍という官職が、鎮守府将軍と同様に統帥権を保有し、軍政を敷く名分として相応しく、なおかつ奥州藤原氏征討のためも考えると妥当な官職といえました。
しかし後白河法皇、源頼朝の征夷大将軍就任を拒否した天皇と言われています。

 

そして後白河法皇が崩御し、後鳥羽上皇が院政を開始したことで、建久3(1192)年に征夷大将軍に宣下されることになりました。

 

ここで幕府とは、そのままの意味であれば、軍事上に幕を張った陣地で、そこで指揮したり、軍事上の違法行為があれば裁かれたりしました。

 

つまり征夷大将軍には、臨時とはいえ、軍政権や軍令権を保有し、軍事上における裁判権を委任されたものとなります。

 

 

鎌倉時代の天皇とその他の人物

後鳥羽天皇

後鳥羽天皇は、高倉天皇と殖子(しょくし)との間の第4皇子で、尊成という名です。

 

寿永2(1183)年に源義仲の上洛に伴い、平氏は安徳天皇を擁して三種の神器、守貞親王と西国へと移動しました。

 

鳥羽天皇の嗣立以来、践祚儀の主宰は上皇でした。

 

そのため京都に留まっていた後白河上皇は、尊成親王を立て、三種の神器不在の中、上皇の詔宣によって践祚しました。

 

これによって東の京都には後鳥羽天皇、西の福原には安徳天皇と東西に天皇が並び立つことになりました。
つまり二所朝廷です。

 

しかし寿永4(1185)年の壇ノ浦の戦いによって安徳天皇が入水し平氏が滅亡したため、二所朝廷は解消されました。

 

建久3(1192)年に後白河法皇が崩御すると、形の上で天皇親政となりますが、その後建久9(1198)年になると4歳の為仁親王に譲位し、上皇となって院政を開始します。

 

後鳥羽上皇の院政は、土御門、順徳、仲恭の3代23年に及ぶことになります。

 

鎌倉幕府成立後において、上皇による院政は不都合極まりないものとなり、源の3代は幕府と朝廷の関係を協調的にしていましたが、幕府側の執権北条氏が実権を掌握するようになると、次第に朝廷側との確執が生じるようになりました。

 

後鳥羽上皇は、徐々に討幕計画を進行させ、承久3(1221)年5月になると、後鳥羽上皇は執権北条義時追討の宣旨を発して挙兵します。

 

この時北条義時は、主上御謀反といって、後鳥羽上皇が権力を強めるために討幕する行為は、民を無視した政治と考えていました。

 

幕府側は、北条政子が御家人の結束を呼びかけ、兵を動員し、朝廷側の兵力と士気に勝り、わずか一ヶ月程で勝敗は決しました。

 

その後後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡へと流され、践祚したばかりの壊成王(九条廃帝)を皇位から引きずり下ろし、後鳥羽上皇の兄行助(ぎょうじょ)入道親王(守貞親王)を治天の君の後高倉院として、その子後堀河天皇を新天皇として即位することになりました。

 

これを先例として、幕府が皇位継承者の決定に介入出来るようになりました。

 

北条泰時

北条泰時は、鎌倉幕府第2代執権北条義時の長男であり、鎌倉幕府第3代執権です。

 

鎌倉幕府が設立して、初代征夷大将軍源頼朝の時代において、先例と道理に基づいて、裁判を行っていましたが、その公平な裁判をする基準として作ったものが、御成敗式目になります。

 

これをイギリスの法律用語で言うと、コモン・ローエクイティーです。

 

コモン・ロー(common law)とは、普通法と訳される英米法大系の根幹をなすものであり、裁判などの判例を重ねて先例を作り、法としての安定性や柔軟性を形作るものになります。

 

エクイティー(equity)とは、衡平法と訳され、コモン・ローだけでは、賄うことの出来ない部分を正義によって裁判官が判断するもので、コモン・ローと同様に判例を重ね先例を作っています。

 

ローマ法に、法とは、善と衡平に関する技術と定義されており、その部分に該当するものです。

 

イギリスでは鎌倉時代からさらに数百年後にイギリス憲法として形作られていきますが、日本ではすでにその概念を元に武家の基本法として作られました。

 

制定に関しては、執権北条泰時が六波羅探題として京都にいた弟の北条重時に宛てた2通の書状である北条泰時消息文で、式目の精神や目的が述べられています。

 

後高倉院

後高倉院は、高倉天皇と殖子との間の第2皇子で、後鳥羽上皇とは同母弟になります。
守貞という名で、出家した後は行助(ぎょうじょ)入道親王と名乗りました。

 

守貞親王が、承久の乱後、後鳥羽上皇が隠岐に配流されたため治天の君がいない状態でした。
そして幕府は、後鳥羽上皇の流れではなく後堀川天皇を天皇として即位させようとします。

 

そのため治天の君による伝国詔宣が必要になるため、父親である守貞親王を治天の君として、太上天皇の尊号を奉り、後高倉院の院号が贈られることになりました。

 

後高倉院は、天皇にならずに太上天皇になった不登極帝の先例の初例です。

 

亀山天皇

亀山天皇は、後嵯峨天皇と中宮西園寺?子(きつし)との間の第3皇子で、恒仁(つねひと)という名です。

 

後嵯峨天皇が、第2皇子である後深草天皇に退位を迫り、亀山天皇に践祚させましたが、その後後継者を指名することなく崩御したため、兄の後深草天皇系を持明院統(のちの北朝)として、弟の亀山天皇系を大覚寺統(のちの南朝)として2つの朝廷勢力が存在することになりました。

 

文永5(1268)年に、高麗の使者が、元のクビライ・ハンの国書を携えて大宰府に到着します。

 

その国書が京都の朝廷に送られますが、処理を幕府に委ね鎌倉に送りました。
これによって外交大権を放棄する先例が出来ました。

 

幕府は蒙古襲来に備え、大宰府の守りを強化し、また朝廷も諸国の寺社に異国降伏(ごうぶく)の祈祷を命じます。

 

亀山上皇が治天の君として院政を行っている時期に文永、弘安の2度の元寇に遭遇することになります。
そこで、国難を乗り越えるために伊勢神宮へ「身を以て国難に代える祈願」に努めました。

 

また文永11(1274)年、蒙古襲来により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めています。
文永の役と弘安の役で勝利を収めたのは、鎌倉幕府第8代執権の北条時宗でした。
わずか18歳で執権に就任し、文永11(1274)年10月の文永の役は神風によって退け、弘安4(1281)年5月の弘安の役においては、実際に撃滅し、その後の神風によって撤退することになりました。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

おさらいをしておきます。

 

承久の乱後の朝廷は、様々な制約が鎌倉幕府によって設けられることになり、その影響力を無視することは出来なくなります。

 

とくに鎌倉幕府の将軍は、源頼朝から始まり、3代までは、実際上の権力を持っていましたが、次第に執権である北条氏にその権力が移るようになります。

 

また亀山天皇以降は、南北朝の始まりへとその後繋がっていくことになり、後醍醐天皇の登場によって鎌倉幕府は滅亡することになりました。

 

 

この記事のおすすめ本

旧皇族が語る天皇の日本史(PHP新書)(竹田 恒泰)

令和新修 歴代天皇・年号事典(米田 雄介)


 
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