歴史の始まり、実在性が確認されている古墳時代の天皇

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歴史の始まり、実在性が確認されている古墳時代の天皇

日本の歴史は、時代区分によっては意味合いが異なることがあります。

 

そのため古墳時代の天皇としては、応神天皇から継体天皇の時代とします。

 

そこで古墳時代の代表的な天皇をご紹介していきます。

 

 

 

 

古墳時代の天皇とは

氏族政治

氏族政治とは、氏姓によって職種が決まっており、大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)が政治を行っていました。

 

氏族政治の時代は、飛鳥時代の蘇我氏の専横までとなります。

 

倭の五王

倭の五王とは、宋の歴史をまとめた宋書に、讃、珍、済、興、武の五人の王が登場します。

 

讃は応神天皇あるいは履中天皇
珍は、反正天皇
済は、允恭天皇
興は、安康天皇
武は、雄略天皇

 

と比定されています。

 

実在性が確認されている天皇

実在性が確認されている天皇としては、雄略天皇となります。
これは、考古学的見地として、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘や熊本県の江田船山古墳出土大刀銘が四七一年時のものとして、五世紀後半の大和朝廷の支配権は九州から関東にまで及んでいた可能性が想定されています。

 

 

古墳時代の天皇とその他の人物

仁徳天皇

仁徳天皇は、応神天皇の第四子で、幼い頃から聡明で知られていました。

 

仁徳天皇の特筆すべき話といえば、民の竈伝説です。
これは日本独自の君主と民のあり方が表されている内容といえます。

 

そして仁徳天皇の治世は、灌漑や治水などの公共事業を行っていて、その功績もあって、大阪府堺市の大山古墳、全長四百八十六メートルの日本一大きい前方後円墳が造られました。
大山古墳が仁徳天皇陵に比定されてはいますが、現在ではこれを疑問視する見解も存在しています。

 

民の竈伝説は、次のとおりです。

 

仁徳天皇が即位して四年目になり、高台に登って民の様子を見ていたところ、家々から炊事の煙が立ち上っていないことに気づきました。

 

なぜ、煙が立ち上っていないかを家臣に聞いたところ、民が貧しい生活をしており、税金を払えない状況でご飯も食べられない状態であることを伝えます。

 

そこで仁徳天皇は、民が苦しいのであれば、三年間税を免除する詔を出しました。
これを、群臣に下し給える詔といいます。

 

その後もさらに三年間税を免除する詔を出します。
これを、課役を除くの詔といいます。

 

気候も順調で民は豊かになり、高台に立つと炊事の煙があちこちに上がっているのが見え、民の生活は見違えるように豊かになってきました。

 

それを見て仁徳天皇は喜ばれ「自分は、すでに富んだ」と言います。
しかし仁徳天皇の着物や履物は破れ、宮殿も荒れ果てていたがそのままにしていました。

 

それを耳にされた皇后は「宮殿が崩れ、雨漏りもしているのに、どうして富んだと言われるのですか」と言います。

 

すると仁徳天皇は「昔の聖王は民の一人でも飢え寒がる者があるときは自分を顧みて自分を責めた。今、民が貧しいということは自分も貧しいのだ。民が富んでいるということは自分も富んでいる」と答えました。

 

やがて民が仁徳天皇に感謝し、荒れ果てた宮殿作りに励むことや税を受け取ってもらうために赴くことになります。
そして宮殿はすぐに完成し、それ以来仁徳天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」と称えるようになりました。

 

雄略天皇

雄略天皇は、允恭天皇の第五子で、稲荷山古墳出土鉄剣銘江田船山古墳出土大刀銘実在性が確認出来る天皇です。

 

日本書紀での記載は、残酷な天皇として知られています。

 

残酷な天皇の所以は、天皇に即位する前に眉輪王(まよわおう)の変という事件がありました。

 

まず允恭天皇の前の天皇の安康天皇が、叔父の大草香皇子(おおくさかのみこ)が天皇に反抗しているのではないかということで皇子を殺害してしまいます。

 

それを知った大草香皇子の子供である眉輪王が父の仇討ちのため安康天皇を暗殺します。

 

その報告を聞いたのちの雄略天皇は、兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)が眉輪王討伐に立ち上がらないことから、暗殺側の一味として切り殺してしまいました。

 

次に安康天皇の兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)のもとに確認しますが消極的な返事しかしませんでした。

 

その後坂合黒彦皇子は、眉輪王とともに当時の有力豪族の葛城円(かつらぎのつぶら)大臣の屋敷に逃げ込むことになります。

 

そして雄略天皇は兵をあつめて屋敷を包囲し、そこで葛城円の娘の韓媛(からひめ)と所領の「葛城の宅(いえ)、七区(ななところ)」(『古事記』では「五処(いつところ)の屯宅(みやけ)」を差出して許しを乞いますが、認められず焼き殺されてしまいました。

 

これが眉輪王の変です。

 

その後葛城系皇族も、さらなる復讐の芽を摘むため殺害され、それが間接的な原因となって、のちに武烈天皇の代で仁徳天皇から続く皇統が断絶することになります。

 

その間接的なきっかけを作ったのは雄略天皇でした。

 

考古学的見地としては、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘や熊本県の江田船山古墳出土大刀銘が四七一年時のものとして、五世紀後半の大和朝廷の支配権は九州から関東にまで及んでいた可能性が想定されています。

 

最後に万葉集の一番初めの大泊瀬稚武(おほはつせのわかたけ)天皇の御製歌(おほみうた)は、雄略天皇の歌です。

 

この歌の場面は、春の若菜摘みの場面で、籠と堀串(土堀り用のへら)を持って岳で若菜を摘む娘に対して、我こそは、そらみつ大和の国を統治する王であると名のり、私に家と名を教えよと、求婚した歌となっています。

 

ここでも大和の国を統治する王とあり、鉄剣銘と大刀銘で示しているものと共通する部分があります。

 

飯豊青皇女

飯豊青(いいとよあお)皇女は、履中天皇の皇女で、清寧天皇が崩御後、次の顕宗天皇が即位するまでの期間の政務を取り仕切っていました。

 

飯豊青皇女は、神功皇后と推古天皇を繋ぐ中間に位置していますが、こちらも神功皇后と同じく、「大王の代行者」として「臨朝秉政」(りんちょうしょうせい)を行っています。

 

そのため日本書紀にある記載で「尊」、「崩」、「陵」の字が使われ、天皇に準じた扱いにもなっていました。

 

また扶桑略記や、室町時代で後小松天皇の命によってまとめられた本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)においても飯豊天皇という表記がみられていますが、現在は天皇ではありません。

 

武烈天皇

武烈天皇は、仁賢天皇の皇子で、残虐な性格の持ち主とされています。

 

その残虐ぶりは、妊婦のお腹を割いて胎児を見ようとしたなどがあります。

 

八年間の在位で崩御することになりますが、皇子がいないため皇嗣問題が深刻化することになりました。

 

中国の歴史になぞらえて仁徳天皇の王朝が断絶したという説もあります。

 

継体天皇

継体天皇は、武烈天皇に皇嗣がいなかったため、応神天皇の五世の孫である袁本杼命(をほどのみこと)が招聘され、大連の大伴金村などの群臣に従って即位することになりました。

 

そして仁徳天皇以来の皇統を女系という形で継いでいくことで、武烈天皇以降の天皇としての正統性を繋げていくことにしています。

 

それは仁賢天皇の皇女である手白香皇女(たしらかのひめみこ)、武烈天皇からみれば妹にあたる人を皇女として迎え入れることで、系統を受け継ぐことになりました。

 

つまり男系としては、五親等離れますが、女系としては二親等になり、仁徳天皇以来の血統から見れば近くなります。

 

男系から見れば遠い系統も女系によって近くするという先例の初例であり、これはその後の時代においても活用される先例となります。

 

次の天皇である安閑天皇とその次の天皇の宣化天皇は、尾張氏の尾張目子媛(おわりのめのこひめ)を母親としており、異母兄弟の欽明天皇と比べると陵の規模を見ても差が出ていることがあり、女系として系統を繋いでいるかいないかで区別もされています。

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか。

 

おさらいをしておきます。

 

古墳時代の天皇とは、倭の五王であったり、断片的ではありますが、歴史として残されている時代の天皇となります。

 

とくに継体天皇の先例や女系としての血統を繋いでいくのは、その後の時代においても活用されることになる先例となっています。

 
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