歴史的に天皇の権威が揺らいだのは南北朝時代、いったい何があったのか?

後醍醐天皇

南北朝時代に至る過程として、鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇による新政権が樹立しますが、その後足利尊氏の離反によって新政権が崩壊します。

 

南北朝時代の区分として、新政権が崩壊した建武3(1336)年から、南北の両朝が合一する明徳3(1392)年までの期間です。

 

この時代の天皇は、後醍醐天皇から後小松天皇であり、その中の代表的な天皇をご紹介していきます。

 

 

 

 

南北朝時代の天皇とは

両統迭立

これまでも、嵯峨天皇と平城上皇の二所朝廷、安徳天皇と後鳥羽天皇の東西に並び立つ天皇とありました。
それらはすぐに平定することにはなりましたが、鎌倉時代の両統迭立は、簡単には終わることがありませんでした。

 

鎌倉時代の両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統との間に代わる代わる天皇が即位しました。

 

そして後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、新政権が作られました。
しかし、足利尊氏の離反により建武3(1336)年に崩壊してしまいます。

 

足利尊氏の奏請によって同年8月から光厳の院政が開始され、後醍醐天皇は京都を脱出し吉野に朝廷を樹立します。

 

かくて、両統迭立から南北朝の時代へと、移ることになりました。

 

 

南北朝時代の天皇とその他の人物

後醍醐天皇

後醍醐天皇は、後宇多天皇と典侍忠子(ちゅうし)との間の第2皇子で、尊治(たかはる)という名です。

 

後醍醐天皇は自ら後醍醐という名前(諡号)を決めていた唯一の天皇で、延喜・天暦の治として有名な醍醐天皇や村上天皇の時代を念頭に置いた理想の政治を実現するために親政を行いました。

 

天皇親政を行うには、鎌倉幕府の存在が邪魔であるため、討幕の志を持つ者達を集め、討幕運動を行うことになります。
三度の討幕運動の末、鎌倉幕府は崩壊し、後醍醐天皇は京都にて朝廷政治の復活を打ち出しました。

 

後醍醐天皇による建武の新政の開始にともない、公家や寺社の所領の安堵や、討幕の論功行賞をすることになります。
そして「朕の新儀は未来の先例たるへし」として先例や慣行をないがしろにし、討幕の恩賞の不満や諸政策などの矛盾から混乱をきたし、遂には反建武政権運動に繋がりました。

 

天皇は窮地に立たされ、吉野に移って南朝を樹立し、その後義良(のりよし)親王に譲位し、崩御しました。

 

光厳天皇

光厳天皇は、後伏見天皇と女御寧子との間の第1皇子で、量仁(かずひと)という名です。

 

光厳天皇は、、鎌倉幕府の推戴によって即位しました。
しかし後醍醐天皇の討幕によって、後伏見天皇ともども近江で捕らえられることになり、後醍醐天皇の詔によって廃されることになりました。

 

その後、後醍醐天皇による建武の新政の失敗により、足利尊氏が叛旗を翻すことになり、尊氏の奏請により光厳上皇の弟の豊仁(ゆたひと)親王を皇位につけ、光厳上皇による院政が開始されました。

 

足利尊氏は、「建武式目」を制定して室町幕府を開き、同時期に後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立することで、持明院統の光明天皇と大覚寺統の後醍醐天皇の両統が並立する南北朝分立時代に突入することになりました。

 

後光厳天皇

後光厳天皇は、光厳天皇と典侍秀子との間の第2皇子で、弥仁(いやひと)という名です。

 

後光厳天皇が即位する前に、正平7(1352)年に事件が起こりました。
観応の擾乱といいます。

 

それは、治天の君である光厳上皇、光明上皇、崇光上皇と皇太子直仁親王が南朝側に拉致されるという事件です。

 

さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天の君、天皇、皇太子、神器不在の事態に陥りました。

 

そして足利義詮のもと再建された室町幕府は、天皇や治天の君はおろか、皇位継承者を喪失し、北朝をどう復活させるかが問題になりました。

 

そこで幕府は、後伏見上皇の女御であった広義門院(西園寺寧子)を治天の君にして、光厳上皇の末子弥仁(いやひと)親王を擁立する案を出します。

 

白河上皇からの先例として、天皇に即位するには治天の君による譲国の儀が必要です。

 

この場合、治天の君を譲国者といい、その詔宣によって天皇が践祚即位することになります。
つまり治天の君による手続なくして政務が取れなくなってしまう仕組みになっています。

 

幕府にとっては、天皇が武家の首長を征夷大将軍に任命することで正当性を表明することが、不安定な時代においては、とくに必要な措置でした。

 

そのため、先例のない女性の治天を登場させ、神器も神鏡を納めた空箱を神器に見立てて践祚を行いました。
これを花山天皇のときと同様で「如在の儀」といいます。

 

先例は、継体天皇の践祚の先例を持ち出し、弥仁親王を、天皇として即位させました。

 

応安元(1368)年になると足利義満が征夷大将軍になり、応安4(1371)年に緒仁(おひと)親王に譲位し、院政を開始するが、間もなく崩御することになりました。

 

後円融天皇

後円融天皇は、後光厳天皇と典侍仲子(ちゅうし)との間の第2皇子で、緒仁(おひと)という名です。

 

この時代は、足利義満が17歳から49歳までに、一つ一つ先例を積み重ねて天皇に変わる日本国王として肉薄していきました。
日本の歴史上もっとも天皇家の権威が失墜した時期です。

 

この時期に南北朝の対立がなくなり、京都の幕府と南朝との対立の様相を呈していました。

 

永徳2(1382)年に皇子の幹仁(もとひと)親王に譲位し、実質も形式もない本当の意味での形ばかりの院政を開始することになります。

 

後小松天皇

後小松天皇は、後円融天皇と内大臣三条公忠(きんただ)の娘の厳子(いずこ)との間の第1皇子で、幹仁(もとひと)という名です。

 

後円融天皇から譲位されますが、この時期は足利義満が天皇に変わる日本国王として天皇家に肉薄しており、専制的な政治が進められていました。

 

その折りに、明徳3(1392)年に南朝の後亀山天皇から三種の神器を受け取り、南北朝合一がなされることになります。

 

応永19(1412)年には皇子の実仁(みひと)親王に譲り、院政を開始します。

 

後小松天皇の院政については、称光天皇、後花園天皇まで継続することになりました。
しかし足利義満が生きているときは、ほぼ何も出来ず、天皇家の権威は失墜した状態です。

 

そこで室町幕府第6代将軍足利義教の時代の永享の乱になると、義教が後花園天皇に対して治罰の綸旨を頼み込む時期から、徐々に天皇家の権威が復活することになりました。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

おさらいをしておきます。

 

後醍醐天皇の登場によって、鎌倉幕府が滅亡します。
しかし、後醍醐天皇による建武の新政を行うも、武士達の恩賞の不満などから長続きすることが出来ませんでした。

 

そして観応の擾乱を見たとおり、後光厳天皇をむりくり即位させるなど、先例を軽視していました。

 

その後は足利義満が室町幕府第3代征夷大将軍になり、日本の歴史上もっとも天皇家の権力はもとより権威が失墜した時代です。

 

足利義満という嵐が過ぎ去り、足利義教の時代になると、徐々に天皇家の権威が復活していくことになりました。

 

 

この記事のおすすめ本

旧皇族が語る天皇の日本史(PHP新書)(竹田 恒泰)

室町の王権 足利義満の王権簒奪計画(中公新書)(今谷 明)


 
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