奈良時代の代表的な天皇はどんな先例を作ったのか、それを紹介します!

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奈良時代の代表的な天皇はどんな先例を作ったのか、それを紹介します!

奈良時代は、奈良に平城京という都が置かれた時代となります。

 

その時代の天皇は、元明天皇から光仁天皇であり、その中の代表的な天皇をご紹介していきます。

 

 

 

 

奈良時代の天皇とは

皇親政治

壬申の乱以後、奈良時代の前半は、天皇と皇族による政治体制として皇親政治の時代となります。
この時期に中国法を継受し律令法が整備されていく時代でもあります。

 

 

奈良時代の天皇とその他の人物

元正天皇

元正天皇は、草壁皇子と元明天皇との子です。

 

元正天皇をもって女系天皇の先例と言われることがあります。

 

それは大宝律令の継嗣令には、「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること(女帝の子もまた同じ)」とあり、女帝つまり元明天皇の子ということでいわれます。

 

しかしこの時期は、皇族同士の婚姻が前提となるため、後に光明皇后を初例として皇族以外からの立后がなされて以後、女帝の子が皇族となる先例が作られることはありませんでした。

 

光明皇后

光明皇后は、聖武天皇の皇后で、藤原不比等の娘です。

 

長屋王の変後、天平元(七二九)年八月に藤原光明子を皇后にする詔が発せられます。

 

皇族以外から立后された初見となります。
これ以後、藤原氏の子女を始めとして皇后になる先例となりました。

 

また光明皇后は、仏教の慈悲の思想に基づいて、貧しい人や孤児を救うための施設として「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善活動も行っていました。

 

称徳天皇

称徳天皇は、その前に孝謙天皇として即位し、その後重祚した女性天皇になります。

 

称徳天皇の時代において、皇室簒奪を目論んだといわれる弓削道鏡道鏡事件が起こりました。

 

道鏡事件とは、弓削道鏡を皇位に就かせるお告げが宇佐八幡大神より降ろされたことに対して、その真相を確認するため和気清麻呂は宇佐八幡宮に派遣されます。

 

769(神護景雲3)年7月11日に宇佐八幡宮にて和気清麻呂がご神託を受けました。

 

その後、道鏡を皇位に就かせたいと考えていた称徳天皇によって、和気清麻呂を因幡員外介(いなばのいんげのすけ)に左遷し、さらに名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に配流することになります。

 

しかし称徳天皇が崩御し、後ろ盾がなくなった道鏡は罪を問われ、下野国の薬師寺に左遷されることになりました。

 

桓武天皇

桓武天皇は、天智天皇の孫で光仁天皇の皇子になります。
生母は高野新笠妃であり、百済の武寧王の子孫です。

 

桓武天皇の時代になると、平城京から平安京に遷都し、以後明治になるまでの都となりました。
ここに奈良時代が終わり、平安時代の始まりとなります。

 

桓武天皇は、蝦夷や東北地方の平定のために、初の征夷大将軍として大伴弟麻呂を派遣し、副将軍の坂上田村麻呂が大きな戦果を挙げます。
その後、蝦夷征討の任務を坂上田村麻呂に代わり、東北が平定されました。

 

節刀とは、天皇が出征する将軍に任命の証としてもつ刀で、天皇から軍事指揮権を委任された証といえるものです。

 

それまでは践祚という概念がなく即位のみでしたが、桓武天皇から践祚を経て、即位することになりました。

 

践祚とは、先帝から位を受け継ぐことです。
その際に三種の神器が新帝に渡る儀が行われます。

 

それまでは殯(もがり)の葬送儀礼が長い時間をかけて行われており、それまでは即位出来ませんでした。

 

先帝崩?(ほうそ)から新帝即位までの期間が長く、政争などがしばしば起こることもあるため、その便宜として践祚と即位が分離されたと考えられています。

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか。

 

おさらいをしておきます。

 

奈良時代は、皇親政治の体制の時代でもあり、とくに天皇や皇族が政治を行っていました。
この時代に、皇后が皇族ではないいわば民間から出るようになります。

 

また、和気清麻呂が宇佐八幡宮のご神託を受けたように、皇位に就くものは皇統にあるものでなければならないことも、ここで確認することが出来ます。

 
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