「君臨すれども統治せず」を体現した天皇、嵯峨天皇の時代とその人物像とは

嵯峨天皇

君臨すれども統治せずとは、イギリスの君主を指しますが、2つの革命を経て、定着していきます。

 

日本では、嵯峨天皇の時代が政治改革の気風や文化が花開く時代でした。

 

ここでは、嵯峨天皇の時代とその人物像についてご紹介します。

 

 

 

 

嵯峨天皇という人物

誕生から即位

桓武天皇と皇后藤原乙牟漏(おとむろ)の第2皇子として、延暦5(786)年に誕生しました。
諱は、神野(賀美能、かみの)といいます。

 

大同元(806)年5月に兄にあたる平城天皇の皇太弟となります。
そして大同4(809)年4月1日に平城天皇から譲位を受け、神野皇太弟が践祚し、13日に即位しました。

 

藩邸の旧臣

嵯峨天皇の治世は、権力者の血統に連なる人達ではなく、もって生まれた高度な学識や才能を見出されて登用された文人官僚達が、政治の中枢に集められて、その能力を発揮することが出来た時代でした。

 

その前の時代であれば、奈良に都があり、藤原仲麻呂の乱や道鏡事件などがあり、この後の時代であれば、藤原北家が支配するいわゆる摂関政治の時代となります。

 

その狭間の時代は、稀ではあるがもっとも「日本的」な政治だったといえます。

 

文人官僚とは、大学寮で紀伝道を学び、更に難関をうたわれた国家試験に合格し、文章生(もんじょうしょう)に進み、更に任官資格を得て、有能な律令官僚となった一群の人々です。

 

この文人官僚を誕生させたのは、神野皇太弟の時でした。
この文人官僚を「藩邸(はんてい)の旧臣(きゅうしん)」(『続日本後紀』承和七年七月庚辰条)と称しています。

 

藩邸の旧臣は、皇太弟の東宮坊に奉仕し、早くより神野親王に近侍していた一群の人々を指します。

 

東宮坊に奉仕していたものとしては、藤原冬嗣や藤原三守(みもり)が、それぞれ東宮坊の東宮大進、東宮亮や東宮の主蔵監などを務め、早くから皇太弟に仕えていた近臣達でした。

 

現在の制度でいえば、皇太子に使える宮内庁東宮職の職員で、東宮侍従などの職に就いている人になります。

 

その嵯峨天皇と文人官僚をより政治的な結束を高めたのは、即位後まもなくして起こった薬子の変でした。

 

 

薬子の変

平城天皇の譲位

平城上皇が嵯峨天皇の譲位した理由は、病気がちで、譲位して療養したいということでした。
そして、遷都する前の都だった平城京を太上天皇宮として平城上皇は移ることになります。

 

平城京の太上天皇宮は、平城上皇と奉仕するもの達のみとして、その機能は限られたものでした。

 

この平安京と平城京の2つの朝廷が並んでいることから、史料では二所朝廷と言われます。

 

嵯峨天皇の病

大同5(810)年7月になると、嵯峨天皇が病気になり、中々回復することがなく、この時は譲位を考えており、平城上皇にその希望を伝えますが、許されませんでした。

 

そして、平城上皇が健康を取り戻すようになると、国政に介入する姿勢を取り始めます。

 

この時に平城上皇側の動きを監視するため、「藩邸の旧臣」だった藤原冬嗣と巨勢野足を蔵人頭に任命し、蔵人所を設置します。
現在の制度でいえば、内閣官房といえます。

 

さらに、平城上皇は、突如平城遷都を命じます。

 

ここでは、太上天皇としてか、それとも天皇に復位して政務を取るのかはわかりませんが、少なくとも平安京の王権を否定することにはなります。

 

そしてこの頃平城上皇の側近にいたのが、藤原仲成と薬子の兄妹でした。
藤原薬子は、平城上皇が皇太子の時からの側近で、平城上皇に対する影響力もありました。

 

薬子の変の勃発

大同5(810)年9月6日に、平城上皇は、平城京へ遷都する詔を出し、嵯峨天皇はをの詔に従うとして、坂上田村麻呂や藤原冬嗣らを造宮使に任命し、平城京に送り込みます。

 

そして嵯峨天皇は平城京への遷都を拒否することを決断し、早期に鎮圧します。

 

処罰された人物として、
藤原仲成は、右兵衛府に監禁の上で佐渡権守に左遷、のちに射殺
藤原薬子は、官位を剥奪、のちに自殺
平城上皇は、出家
平城上皇の皇子であり皇太子であった高岳親王は廃太子

 

 

坂上田村麻呂は、大納言に昇任
藤原冬嗣は、式部大輔を兼任

 

 

弘仁の治

理想の政治

つまり「弘仁」とは、心が弘く、なさけ深く、弘く仁をほどこすことを意味する言葉とされている。「弘仁」はまさに嵯峨天皇の政治の理想。

 

政治としては、唐の最盛期の律令制国家であり、文化としては、君臣間の心の交流です。

 

政治改革

嵯峨天皇の治世は、律令制国家をより発展させるために、政治改革を行います。

 

まずは、蔵人所を設置し、嵯峨天皇の側近を蔵人頭に任命したことは先に紹介しました。
その他、治安維持のために検非違使を設置します。

 

これらは律令の規定にない役所で令外官と呼ばれることになります。

 

続いて律令を補充する法令として、格式(きゃくしき)を藤原冬嗣を中心に、大宝元(701)年から弘仁10(819)年までのものを編纂します。

 

これを弘仁格式といい、三大格式と呼ばれるものの始めの格式になります。

 

文化事業

嵯峨天皇は、実際の政務は、文人官僚に委ねます。
実際の政務を行ったのが、右大臣の藤原園人で、この人も「藩邸の旧臣」です。

 

そして嵯峨天皇は、君臣間の心の交流を「詩宴」を主催して、実施します。
「詩宴」において、君臣応制の詩を通じて行われます。

 

それは、「凌雲集」、「文化秀麗集」、「経国集」で、勅撰漢詩集として編纂されます。
最初に出された「凌雲集」は、日本最古の勅撰漢詩集です。

 

ただ、藤原園人としては、率先して国家財政の再建に努めたことや誠実な官人でもあったため、「詩宴」や「花宴」などの君臣との交流については、財政がひっ迫することもあるため反対の意見を上奏していました。

 

また、嵯峨天皇自身が空海や橘逸勢とともに“三筆”に数えられる程の能筆家であったり、最澄の天台宗や空海の真言宗といった平安仏教も成立したのがこの時代でした。

 

嵯峨源氏

嵯峨天皇の子供は、50人ほどいる子だくさんでした。
しかしこれだけの人数を皇族とするのは、財政的にも難しいため、天皇の子女達を臣籍降下させます。

 

これが嵯峨源氏です。

 

そして源氏姓をもったものが、左大臣として参議に列し、藤原摂関政治の時代に少数の嵯峨源氏勢力が存在しました。

 

左大臣にまで承認したのは、源融(みなもとのとおる)、源信(みなもとのまこと)、源常(みなもとのときわ)です。

 

仮に藤原氏の誰かが、道鏡事件のようなことを起こして自身が天皇に代わるようなことをしようとしても、一定の嵯峨源氏の勢力が対立することになると思われます。

 

その意味では、藤原摂関家に対抗する政治勢力としての存在でもあったと考えられます。

 

 

嵯峨天皇の譲位

太上天皇の尊号を拒否

嵯峨天皇は、平城上皇との経験から、弟の淳和天皇に譲位したときに、太上天皇の尊号を固辞します。
しかし、譲位した先帝の身分が定まらず、さらには太上天皇の尊号が贈られなかった先例もあるため、何とか方法を考えました。

 

それは、新天皇である淳和天皇が、先帝を太上天皇にすると天皇の名で命じることでした。
それによって、天皇と上皇の上下関係をはっきりさせることになりました。
つまり、新天皇の命によって先帝を上皇とすることになるためです。

 

尊号の儀

淳和天皇が嵯峨天皇に太上天皇の尊号を贈ったことが先例となり、以後尊号に際しての儀式があります。

 

始めに、尊号を上る儀があります。
これは、尊号の証書を作成し、尊号を上るべき旨を宣するものとなります。

 

次に、尊号辞退の儀があります。
これは、尊号を上る儀に対して、太上天皇が上書して尊号を辞退するものとなります。
そして尊号辞退に対しては、辞退が再三に及ぶことになりますが、天皇が聴許なき旨を勅答します。

 

太上天皇の尊号を辞退する書面を御辞書または御辞表といい、これに対する天皇の勅答を御報書といいます。

 

これにより、天皇と上皇の上下関係がはっきりすることになりました。

 

 

嵯峨天皇の略歴

神野(賀美能、かみの)

 

父母

父:桓武天皇
母:皇后藤原乙牟漏(おとむろ)

 

略歴

誕生:延歴5年9月7日
立太子:大同元年5月19日
践祚:大同4年4月1日
即位:大同4年4月13日
譲位:弘仁14年4月16日
太上天皇:弘仁14年4月23日(尊号宣下)
崩御:承和9年7月15日

 

后妃・皇子女

皇后:橘嘉智子(檀林皇后)
 正良親王(仁明天皇)
 正子内親王(淳和天皇皇后)
 秀良親王
 秀子内親王
 俊子内親王
 芳子内親王
 繁子内親王
妃:高津内親王(桓武天皇皇女)
 業良親王
 業子内親王
妃:多治比高子
夫人:藤原緒夏
女御:百済王慶命
 源善姫
 源定
 源鎮
 源若姫
女御:百済王貴命
 基良親王
 忠良親王
 基子内親王
女御:大原浄子
 仁子内親王(伊勢斎宮)
更衣:飯高宅刀自
 源常
 源明
更衣:秋篠高子
 源清
更衣:山田近子
 源啓
 源密姫
宮人:交野女王
 有智子内親王(賀茂斎院)
宮人:高階河子
 宗子内親王
宮人:広井氏
 源信
宮人:布勢武蔵子
 源貞姫
 源端姫
宮人:上毛野氏
 源弘
宮人:安倍氏
 源寛
宮人:笠継子
 源生
宮人:粟田氏
 源安
宮人:大原全子
 源融
 源勤
 源盈姫
宮人:紀氏
 源更姫
宮人:内蔵影子
 源神姫
 源容姫
 源吾姫
宮人:甘南備氏
 源声姫
宮人:文室文子
 純子内親王
 斉子内親王
 淳王
宮人:田中氏
 源澄
宮人:惟良氏
 源勝
宮人:大中臣岑子
宮人:橘春子
宮人:長岡氏
 源賢
女嬬:当麻氏
 源潔姫
 源全姫
掌侍:菅原閑子
生母不明
 源継
 源年姫
 源良姫

 

嵯峨山上陵

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

嵯峨天皇の時代は、「弘仁の治」として政治改革や文化事業が盛んでした。

 

嵯峨天皇は、藤原園人や藤原冬嗣など優秀な文人官僚に政治を任せ、自身は君臣の心の交流を行います。

 

それは、さながら君臨すれども統治せずを体現する時代でした。

 

そして南北朝時代に北畠親房によって書かれた神皇正統記にも、他の天皇よりも多いページ数を割いて記されています。

 

天皇の歴史の中でも日本の歴史の中でもとくに特筆する時代だったといえます。


 
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