戦国時代の天皇は、財政難の時代でしたが、その時の代表的な天皇は何をしていたのか

正親町天皇

戦国時代の開始と終了時期には、諸説がありますが、ここでは、応仁の乱から関ヶ原の戦いまでの期間としています。
つまり、応仁元(1467)年から慶長5(1600)年までの期間で、室町時代と安土桃山時代の両方の時代も含まれています。

 

この時代の天皇は、後土御門天皇から後陽成天皇であり、その中の代表的な天皇をご紹介していきます。

 

 

 

 

戦国時代の天皇とは

応仁の乱

応仁の乱は、応仁元(1467)年に発生し、文明9(1478)年までの約11年間にわたって継続した内乱です。

 

これは、足利義政の後継として弟の義視(よしみ)と子の義尚(よしひさ)の対立から始まり、管領の細川勝元と山名宗全の対立、畠山家の畠山政長と義就(よしなり)の家督争い、斯波家の斯波義敏と義廉(よしかど)の家督争いが加わることになりました。

 

西軍       東軍
足利義視    足利義尚

 

山名宗全 VS 細川勝元
畠山義就 VS 畠山政長
斯波義廉 VS 斯波義敏

 

そして室町幕府第9代将軍に就任したのは、足利義尚です。

 

最初に、義尚の母の日野富子は山名宗全を頼ります。
そして応仁の乱の緒戦は、畠山義就と畠山政長との争いから始まることになりました。
これに対して山名宗全は、後花園上皇と後土御門天皇を確保して義就を支援します。
また管領の斯波義廉は宗全側に属していました。

 

細川勝元は将軍義政の命令で畠山家の争いに関与することを禁じられていたことから、畠山政長は敗れました。
しかし、勝元は将軍義政を確保し、斯波義敏も勝元側に属して、山名宗全に戦いを挑むことになります。

 

そこで富子は宗全を裏切り、勝元も富子に応えて義尚の後ろ盾となりました。
これに居場所がなくなった義視は出奔し宗全側に駆け込み、宗全が義視の後ろ盾となります。

 

ここに敵味方が入れ替わる外交革命が起きていました。

 

応仁の乱の勝者は、将軍の地位を得た足利義尚とその母親の日野富子、管領の地位を独占した細川家となります。

 

治罰の綸旨

治罰の綸旨とは、征伐の綸旨とも呼ばれ、いわゆる朝敵に対してその追討を天皇が命じ、天皇の秘書官である職事あるいは弁官と呼ばれる公卿が天皇の命を奉じて下す文書です。

 

足利義満の時代によって天皇の権威は失墜しました。
しかし、後花園天皇の時代の永享10(1438)年の永享の乱から始まる治罰の綸旨の発給によって、天皇の権威が復活します。
これは永享の乱以降、明応10(1501)年まで発給が激増しました。

 

この天皇の権威を利用する者がいることによって、天皇の権威に価値が生まれ、意味が生まれることで、存在意義が高まります。

 

ちなみに、幕末において鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」は、天皇から治罰の綸旨が下された証であることを意味します。
この「錦の御旗」の初例は、承久の乱の際に後鳥羽上皇の側の将に与えられたものになります。

 

 

戦国時代の天皇とその他の人物

後土御門天皇

後土御門天皇は、後花園天皇と藤原孝長の娘の信子との間の第1皇子で、成仁(ふさひと)という名です。
後土御門天皇の在位において応仁の乱が始まります。

 

応仁の乱は中央から地方へを拡散していくことになり、長期化します。
それによって京都は大きく荒廃し、皇室や公家の所領が剥奪され、朝廷財政がひっ迫することになりました。

 

そのため朝廷の諸行事の多くが中止となります。

 

在位期間は36年間ですが、その理由は皇室財源の枯渇から譲位することも難しく、何度も足利将軍家に拒否されました。

 

そして明応9(1500)年9月に崩御することになりますが、遺骸は43日間置かれることになり、葬儀も満足に行われませんでした。

 

後奈良天皇

後奈良天皇は、後柏原天皇と女院藤子との間の第2皇子で、知仁(ともひと)という名です。

 

後奈良天皇が即位礼を挙げたのは即位してから10年後であり、しかも戦国大名の寄進によって実現出来ました。
しかし大嘗会は挙げることが出来ず、大嘗会を挙げることが出来なかった天皇としては、崇光天皇、後柏原天皇に次いで三人目となります。

 

後奈良天皇は、戦国の荒廃した時代であっても、自己の役割を十分に踏まえ、疫病流行の際に般若心経を全国の寺社に納めるなど、民衆の平安を常に祈願していました。

 

弘治3(1557)年9月に崩御することになりますが、遺骸は2か月半置かれることになりました。

 

正親町天皇

正親町天皇は、後奈良天皇と万里小路賢房(かたふさ)の娘の栄子(えいし)との間の第2皇子で、方仁(みちひと)という名です。

 

後土御門天皇、後奈良天皇と紹介しましたが、一般的に天皇家の権威が低迷した時期といわれています。
しかし天皇家の権威がもっとも低迷した時期でいえば、天皇の権威に肉薄した足利義満の時代です。

 

この時代は、皇室財政こそ逼迫し、即位礼も満足に出来なかった時代ではありますが、後花園天皇の時代の永享10(1438)年の永享の乱から始まる治罰の綸旨の発給によって、天皇の権威が復活します。
これは永享の乱以降、明応10(1501)年まで発給が激増しました。

 

正親町天皇の在位中は、織田信長と豊臣秀吉の二人の天下人が存在していましたが、時代に翻弄されることなく天皇の立場を最大限に活用した人といえます。

 

織田信長は、天皇の位を簒奪しようとしたという話がありますが、信長が戦争すれば天皇に和平調停を依頼したり綸旨を要請したりしていました。
正親町天皇もその要請に応じ、それどころか信長のために攘敵祈願を行っていました。
攘敵祈願とは、戦勝祈願のことです。

 

しかし信長は、正親町天皇に譲位を迫ることもしています。
そもそも正親町天皇にすがる信長が、譲位を迫ろうとしても曖昧な返事でかわしていました。
それは信長を見透かすかのような対応といえます。

 

本能寺の変が起こると、京都に留まった明智光秀を当面の畿内を支配するという予測から京都の治安を命じています。
このようにこの時代では、時の為政者に対して天皇が態度を変えることをしても、例えば後鳥羽上皇の時のように「主上御謀反」にならないという特徴がありました。

 

明智光秀が、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れます。
この時は、流動的な情勢であるため、正親町天皇は静観していました。

 

そして小牧・長久手の戦いで秀吉が徳川家康に敗れることで、三河以東の地域への侵入を防ぎ、東国支配が実現出来なくなります。
つまり、それは征夷大将軍任官の希望が断たれることになりました。

 

そこで秀吉は、全国支配の道として官位に就くこと、そして天皇の名の下にその代官として領域支配を行うことにしました。
そのため異例の早さで、官位に昇任することになります。
そしてこの時に秀吉は、近衛家の養子となり、正親町天皇から豊臣氏を賜姓され、関白の就任が決定しました。

 

豊臣秀吉は、有力武家に高位高官に任ずるようになります。
五大老である、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元はすべて中納言以上など律令官職の上で、関白秀吉を頂点とする体制を築き上げていきました。

 

正親町天皇は、天正14(1586)年、孫の和仁(かずひと)親王に譲位し、文禄2(1593)年1月5日に崩御しました。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

おさらいをしておきます。

 

天皇の歴史の中でもっとも財政が逼迫した時代でした。

 

その中で足利義満の時代に失墜した権威が、後花園天皇の時代の治罰の綸旨の発給によって復活します。

 

そして正親町天皇は、織田信長を翻弄するなど、政治力のある天皇でした。
また羽柴秀吉が天皇の名の下に全国支配することになったことで、天皇の権威が失墜した時代から比べると、相当程度回復するに至りました。

 

これが戦国時代の天皇です。

 

 

この記事のおすすめ本

天皇の歴史5 天皇と天下人(講談社学術文庫)(藤井 讓治)

武家と天皇 王権をめぐる相剋(岩波新書)(今谷 明)


 
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