「歴史の授業を振り返ると色々な天皇が登場してきたなぁ。でも天皇って偉い人ってことはわかるけど、何をしてきたんだろう?」
「皇族が結婚したことや天皇が代わったニュースはやっていたけど、そもそも天皇って何をやっているんだろう?」
「天皇に興味があるけど色々本がありすぎて何を読んだらいいのかわからない・・・」
天皇と聞くと学校の授業で習ってきたように日本の歴史に頻繁に登場しています。
日々のニュースにも時々登場しているものの、どこか天皇に関する発言はタブー視されている雰囲気もあるように感じてしまいます。
そのため、天皇のことを知りたいと思って調べてもピンと来るものがなく、どんな本を読めば良いのかもわからずじまいになることが多いでしょう。
こんにちは
日考塾の古田です。
今回取り上げるテーマは「天皇」です。
この記事を書いている私は、天皇が現代まで存在しているのは、世界の中で見ると率直にスゴいことだと思っています。
何がスゴいのかというと、その皇統の長さです。
私は、天皇や皇統の長さが気になって色々本を読んでみようと思いました。
私の知り合いで、商社勤めのAさん(28歳・男性)が、海外赴任でアメリカに行ったときのことです。アメリカ商社の商談相手が突然「エンペラー・オブ・ジャパン」のことを教えてほしいと聞かれました。そこでAさんは「エンペラー・オブ・ジャパン?」と答えに困りしどろもどろになってしまいます。その様子を見た商談相手のアメリカ人から、自分の国のこともわからない人とビジネスをしたくないと言われて商談がこじれてしまいました。後日聞かされた話として、その商社は別の日本の商社と連携するという苦い経験をしました。
そんなふうにはなりたくない!
と思うでしょう。
日本に住んでいる以上、天皇のことは教養として知っておくと良いと思います。
学校では、日本の歴史の中で天皇が登場したりしなかったりします。天皇を個別に扱った授業があるわけでもありません。また天皇について、何かタブー視された雰囲気もあって中々知る機会がないのも現状ではないでしょうか。
海外では、自国の歴史を始め、イギリスやタイといった君主がいる国であれば、君主のことを勉強します。しかし日本では学校教育の中で触れることはあるものの、「天皇の歴史」のようなまとまった授業はありません。
本記事では、天皇とは何かを始め、天皇の制度や皇位継承、天皇の歴史などを解説します。また実際の本選びにあたって、どんな本を読めば良いのかを30冊の本からご紹介していきます。
この記事を読むことで、教養として天皇を知られるだけではなく、さらに深めていくためにどんな本を読めば良いのかもわかるようになります。
日本の歴史を紐解けばどの時代にも天皇が登場しています。元号が昭和から平成に代わったときや、平成から令和に代わったときは、日本に天皇が存在していることに気づかされた瞬間だったと思います。
日本の歴史や現代まで存在する天皇の基本部分をご紹介します。
天皇の名称や名前などは、他国の君主と異なり独特な言い回しや意味があります。
「天皇」の語が文献資料として登場するのは、現在のところすでに7世紀半ば頃には成立していたといわれています。それ以前は定かではなく、今後の発掘調査などの結果を待たねばなりません。
「天皇」の語が登場する前は、『宋書』倭国伝に天皇と考えられる記載があります。4世紀から5世紀にかけて倭の五王が中華南朝の宋の皇帝に対して、倭の統治者であることを認めてもらうために朝貢を行っていました。
『宋書』倭国伝に記載された倭の五王の一人である「武」は、雄略天皇と見られています。雄略天皇は、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した「稲荷山古墳出土鉄剣銘」や熊本県玉名郡の江田船山から発掘された「江田船山古墳鉄剣銘」において「獲加多支鹵(わかたける)大王(おおきみ)」という名前が記述されており、『日本書紀』と『宋書』倭国伝の記述も含めて実在が証明される天皇です。
5世紀頃の時点では、「天皇」の語を使用しておらず「大王」として、地方豪族たちを支配下に置いていました。7世紀頃になると従来の「大王」から「天皇」と称するようになり、中央集権的な国家へと変わったと考えられています。
「天皇」の語源は、現代では「てんのう」という呼び方が一般的で、他には「スメラミコト」や「スメロキ」などと呼ばれています。「てんのう」は、「天皇」を音読みした呼び方であり、「スメラミコト」や「スメロキ」は訓読みした呼び方です。
「スメラミコト」の呼称は、天皇個人を指す言葉で使われ、「スメロキ」は、皇祖である神武天皇から続く皇統の意味として「スメラミコト」に対比させて使われていました。
中国の『史記』の秦始皇帝本紀に「古え天皇あり、地皇あり、秦皇あり」とあることから、天上世界の支配者としての意味や、道教において宇宙の最高神を天帝とする思想に基づくなどいくつかの説がありますが、日本がどの説を受け入れたのかは断定できません。『旧唐書』高宗本紀において「皇帝、天皇と称す」とあるため、「天皇」の呼称を君主の意味として使っていたことは明らかです。
天皇は、律令体制の確立後、役割に応じた呼び方に変わります。その呼び方は、養老律令第十八「儀制令」の「1 天子条」にあります。
天皇は、「詔書に称する所」とされており、主に詔書を発する国内に向けての呼び方となります。
次に天子は、「祭祀に称する所」とされており、宮中祭祀などの祭祀を行う際の呼び方です。
最後の皇帝が、「華夷(かい)に称する所」とされており、「華夷」という言葉は中華思想に基づくもので「華」は自国、「夷」を他国と表すことから、国外に向けての呼び方となります。
明治時代に入る前までは律令法が存在していたため、3つの区別は残っていました。しかし律令法が廃止されると、「天子」の呼び方がなくなり、国内向けの「天皇」と国外に向けた「皇帝」の2つが残ります。大正半ばから昭和初期にかけて国体明徴運動が起こったことで、国外向けの「皇帝」の区別をなくし、すべて「天皇」に統一されました。その影響は戦後にも引き継がれ、現在でも国内や国外問わず「天皇」の呼び方となっています。
一般の日本人には、名前の前に苗字があります。苗字というと、「鈴木」さんや「藤原」さんなどがありますが、天皇を始め皇族には、苗字がありません。
現在の天皇の名は、「徳仁(なるひと)」天皇です。
次期天皇の皇嗣を「文仁(ふみひと)」皇太弟といいます。
このように天皇や皇族には、名前のみで苗字がありません。その理由は、苗字が地方や職業などに由来しており、その苗字は君主が与えるためです。つまり与える側である天皇に苗字がないというわけです。
天皇の崩御後に贈られる名を追号(ついごう)といいます。明治に一世一元の制が制定されてから、「明治」「大正」「昭和」と在位中の元号が追号されています。近代以前であれば、元号だけではなく在位中の住まいにちなむものや、先帝を追慕して「後」を冠したものなどがあります。在位中の住まいにちなむ追号の例としては、二条天皇などの例があり、先帝を追慕して「後」を冠した例は、先帝が嵯峨天皇に対して後嵯峨天皇などです。
天皇の崩御後すぐに追号されるわけではなく、贈られるまでの間は「大行天皇」と称されます。大行天皇は「遠くに行かれた天皇」の意味です。崩御後しばらくしてから、追号されます。
また追号の言葉に併せて「諡号(しごう)」という言葉があり、これは天皇の生前の事績を称える名です。諡号は、和風諡号と漢風諡号の2つがあり、大宝3(703)年の持統天皇の大葬に際して贈られた「大倭根子天之廣野日女尊」(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)が和風諡号であり、「持統」が漢風諡号となります。
では昭和天皇などは、追号されたものということがわかりますが、現在の天皇を何と呼ぶかといえば・・・
今上天皇または徳仁天皇といいます。
勘違いしてしまいがちな呼び方が、現在の元号から「令和」天皇と呼称することです。その呼称は、今上天皇が崩御したのちに、贈られる名となるため間違いとなります。在位中の天皇は「今上天皇」と呼ぶことが多いです。
天皇や皇室は、先例を重視します。
先例とは、過去に起きた事例のことをいい、その事例に規範としての重みをもたせたものです。ときに慣例などとも呼ばれます。ただし先例に固執して適切な対応を怠るようなことはしません。
単に古いものが良くて新しいものが悪いわけではありません。しかし乗り越えられないような危機が訪れていないのにいたずらに新しいことをやることは悪とされます。これを「新儀非法」といいます。
また「新儀」は、乗り越えられないような危機が訪れたときに行うことになるため不吉ともされています。つまり新しいことをやる必要があるのは、危機的状況のときのみで、危機的状況でなければ先例に基づいて行動します。
そして天皇は、歴代の天皇の事績を帝王学として学びます。天皇の周りには時の為政者や識者がいるため、起きている問題を相談することがありますが、その相談して出た意見が適切かどうかの判断は天皇自身で行わなければなりません。
起きている問題を解決するために適切な判断をするためには、先例が規範となります。先例にあるものであればすぐに対処できるでしょう。しかし先例になければ、危機を乗り越えるために新儀もやむなく行うことになります。
先例と新儀は、天皇の歴史において、どのような危機に対して先例を活かし、また新儀が行われてきたかがわかります。詳しくは「日本の歴史に登場した天皇の人物像に迫る!天皇小史から見る共通したこととは?」で紹介します。
ドイツ第2帝国の宰相であるオットー・フォン・ビスマルクの格言に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」があります。新儀を不吉として先例を尊ぶ天皇や皇室は、ビスマルクの格言にある「歴史に学ぶ」ことと同じ意味です。ビスマルクが登場するはるか昔から天皇や皇室は、先例を重視しており、危機に対して実践してきました。
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天皇の皇位継承には、世界の君主国とは異なるルールがあります。
皇室典範第1条は、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とあるように、男系男子の皇位継承が原則となります。しかし、男系男子であれば誰でも良いわけではなく、また例外もあるため、実際の皇位継承はより複雑です。
天皇の皇位継承についてご紹介します。
天皇や皇室が先例重視することは前述のとおりであり、皇位継承も例外ではありません。むしろ天皇や皇室にとってもっとも大切なことは、過去からつないできた皇統を未来につなげることです。皇統を未来につなげるために、天皇の皇位継承では先例が重視されます。
天皇の皇位継承は践祚ののち即位します。
先帝の崩御または譲位によって、践祚します。践祚は、「せんそ」と読み、皇位を「践(ふ)」むことです。「祚」は、祭祀において天子が昇る階段である「阼階(そかい)」を指すことから「皇位」に登るという意味であり、皇位を践むことから転じて先帝から受け継ぐ意味になっています。先帝崩御に伴う践祚を「諒闇践祚(りょうあんせんそ)」、譲位によるものを「受禅践祚」といいます。
践祚にかかる儀式を「践祚儀」といい、皇位の証でもある三種の神器「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を受け継ぐことが必要とされ、現在でも「剣璽等承継の儀」が行われます。
ただし三種の神器を承継せずに践祚した先例もあります。後鳥羽天皇や後光厳天皇です。後鳥羽天皇の先帝は安徳天皇で、三種の神器とともに平宗盛以下平家一門に連れられて京都を離れてしまいます。京都に天皇がいないことで政務の停滞が起きたため、解消するために後鳥羽天皇が立てられました。その時は、後白河法皇が皇室の家長である「治天の君」として院政を布いていたため、先帝譲位に際して行われる「譲国の儀」の「伝国璽宣命(伝国詔宣)」によって践祚儀を行いました。
また源平合戦の終末である壇ノ浦の戦いにおいて、三種の神器が水没し、鏡と勾玉は回収できたものの剣の回収はできませんでした。三種の神器は必要ではあるものの、絶対的なものではなく、治天の君による伝国詔宣が譲位に際し必要とされていた時代もありました。
即位に際して「即位礼」が盛大に行われます。元々、即位と践祚は同一だったものの、桓武天皇以後に簡素な践祚儀と盛大な即位礼に分けました。即位礼は準備に時間がかかるため、先帝が譲位または崩御したあとすぐに行うことはできず、また天皇空位期間となるためその時の政変などが起きないようにするために分けられています。
即位礼では天皇の玉座である高御座(たかみくら)に登壇し、近代以前であれば宣命使が即位の宣命を読み上げ、明治以降になると天皇自身で即位の勅語が発せられました。
即位礼はすべての天皇が行えているわけではなく、とくに戦国時代では即位礼が行えずに崩御した天皇もいました。
天皇の皇位継承は、初代神武天皇から続く男系の皇統によって続いてきました。男系とは、父親を辿った場合にその祖先に行きつく系統です。男系の皇位継承には、皇族であることを前提に男系男子と男系女子による皇位継承の2つがあり、前者は現在の皇室典範にある内容そのものであり、後者は女性天皇の先例があります。
皇位継承は、男系男子であることが原則です。しかし、男系男子であれば誰でも天皇になれるわけではありません。男系男子の皇位継承には条件があります。
それは「君臣の別(くんしんのべつ)」と「五世の孫(ごせいのそん)」です。この2つの先例を前提として、男系男子に皇位継承されてきました。
一度臣籍降下した皇族は、原則として皇族に戻ることができません。そして皇族から臣下の地位になったものは皇籍につけなくなります。
これを「君臣の別」といいます。
もし天皇の「男系男子が皇位継承」できるのみとすれば、戦前の内閣総理大臣だった近衛文麿や、室町幕府第3代将軍の足利義満、鎌倉幕府を創設した源頼朝も対象になるでしょう。しかし「君臣の別」の先例があることで、一度臣下の地位になった皇族は原則として皇位につけないため、男系男子といえども皇位継承の対象外となります。
「君臣の別」には例外があります。なぜ例外かといえば、元皇族や旧皇族が天皇になった先例が一例としてあるためです。
宇多天皇は、光孝天皇の第7皇子として誕生します。しかし、誕生してしばらくすると臣籍降下して、定省(さだみ)親王から源定省として源氏の姓を賜ることになりました。
任和3(887)年に光孝天皇の発病によって、時の関白・太政大臣である藤原基経が皇位継承者として、源定省に推挙します。しかし、臣籍降下した元皇族が即位する先例はなかったため、光孝天皇が源定省を親王宣下によって皇籍復帰させ、その後皇太子にしました。皇太子になった日に光孝天皇が崩御したため、定省親王が践祚し、宇多天皇になりました。
宇多天皇は、元皇族から皇籍復帰して天皇になった例外的な先例です。
醍醐天皇は、宇多天皇の第1皇子として誕生します。宇多天皇が、定省親王から源定省として臣籍降下した後に生まれたのが、源維城(これざね)、後の醍醐天皇でした。源定省を元皇族とすれば、源維城は旧皇族です。
源定省が定省親王として親王宣下し、その後宇多天皇として践祚した時に息子の維城も皇籍復帰します。源維城は、宇多天皇が親王宣下によって皇籍復帰させ、敦仁(あつぎみ)の名を与えられました。
皇族であれば誰でも皇位継承できるわけではありません。「五世の孫」とは、皇位継承しなかった皇族を五世の孫までとして臣籍降下する原則です。これは、武烈天皇が崩御ののち、応神天皇の五世の孫である継体天皇の即位を先例としています。つまり、天皇になれる皇族の最大範囲が五世の孫であり、その範囲を超える皇族は臣籍降下します。
継体天皇の先例は、先代の天皇である武烈天皇に子がいなかったことで皇統断絶の危機が訪れます。そこで応神天皇まで遡り、その五世の孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が次の天皇となりました。継体天皇の先例から五世の孫までが皇族の最大範囲とする原則が作られました。
南北朝時代から江戸時代にかけて世襲親王家が誕生しました。世襲親王家とは、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持する親王家のことです。世襲親王家には、四つの親王家があり、伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮を指します。その中で、一番古いのが伏見宮家です。
伏見宮家は、北朝第3代崇光天皇の第1皇子栄仁親王を初代としています。そして、文安4(1447)年に後花園天皇が、父である伏見宮貞成親王に太上天皇号を送ります。これを後崇光院といいます。
そして、後花園天皇の弟である貞常親王に、「永世伏見御所と称すべし」として勅許が下され、貞常親王が伏見宮家を継承し、世襲親王家が誕生しました。世襲親王家は、「五世の孫」の例外となります。
世襲親王家のうち伏見宮家と江戸時代中期頃に成立した閑院宮家は、戦後まで残るものの、昭和22(1947)年にGHQの指令によって臣籍降下させられてしまいました。
天皇の歴史において、8方10代、8人の女性天皇がいました。女性天皇は、すべて次の天皇をつなぐ中継ぎのための役割を担っているものの、次代の天皇に向けて帝王教育も行っています。
女性天皇の条件は、未亡人か未婚であること、そして天皇になった後は生涯独身でいることが先例とされています。
中国を古くからの手本としてきた日本ですが、中華皇帝は原則として女性天皇を認めていません。しかし日本は、8方10代の女性天皇がいたため、独自の制度として確立されたことが伺えます。
歴代の女性天皇には、推古天皇、皇極天皇、斉明天皇(皇極天皇の重祚)、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)、明正天皇、後桜町天皇がいました。
重祚とは、「ちょうそ」と読み、再即位のことです。とくに中継ぎの天皇が必要な時は、次の天皇が成人前などの場合が先例として多くありました。
女性天皇は中継ぎだけの存在だったのか、8人の女帝から見るその役割
日本の天皇には、8方10代の女性天皇がいました。女性天皇の役割は、「中継ぎ」、つまり次の天皇を繋ぐための存在といわれています。本記事では、8人の女性天皇が本当に「中継ぎ」だけの存在だったのか、それとも違う役割もあったのかを解説します。
皇位継承でもっとも重要なのが、天皇の歴史の中で作られてきた先例です。その先例は、原則として男系男子が皇位継承します。そして次に重要な先例が、直系の皇統です。とくに中世において直系と傍系によって天皇の皇統に対する重みが異なっていました。
日本では、男系であることを前提として直系の天皇を重視している時代が長くありました。これを正統(しょうとう)といいます。
正統とは、直系の皇統のことで、皇統は傍流(かたはら)によって枝分かれするのではなく直系によって一つの太い幹とならなければならないというものです。正統の天皇は、皇祖である神武天皇から直系で繋がっています。
ここで注意しなければならないことは、正統がすべて天皇ではありません。あくまで直系と傍系の関係です。神武天皇から景行天皇までは直系の天皇となり、その次の天皇は成務天皇ですが、正統の皇統の場合、日本武尊そして仲哀天皇となります。成務天皇は正統の天皇ではなく、傍流の天皇です。
正統は直系の皇統として、幹の部分と傍系の枝葉の部分で分かれ、とくにどの皇統が正統になるかで争いになることもありました。最たる事例が南北朝時代です。鎌倉幕府の仲介によって大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく両統迭立(りょうとうてつりつ)となり、その後鎌倉幕府の崩壊後、南朝と北朝に分かれます。現在では、明治に起きた南北朝正閏論論争によって、政治問題化し、南朝を「正統(せいとう)」とすることが明治天皇の裁断によって決まりました。明治天皇は、水戸徳川家の徳川光圀によって編纂が始まった『大日本史』の記述から裁断しています。
実際にどちらが「正統(せいとう)」ということではなく、どちらが正統(しょうとう)になるかを争ったと見ることで、その後の見方が変わってきます。気をつけなければならないことは、正統の天皇だけがすべてではありません。皇位継承によっては、それまで正統だった皇統が傍流になることもあります。しかしそれは結果でしかなく、正統(しょうとう)であれ傍流(かたはら)であれ、天皇であることには変わりありません。
現代の皇位継承議論の際に、「女系の天皇」と聞くことがあります。女系とは、母親を辿った場合にその祖先に行きつく系統です。
女系の天皇とは、女性天皇が皇族ではない人と婚姻し、その子が天皇になることです。もし女系の天皇が誕生すれば、現在の皇統が断絶し、父方の王朝に移ることになります。例えば、天皇の娘に藤原氏の男性と婚姻し、その子供が天皇になる場合、藤原氏の王朝になるということです。この場合の子供は、男性であれば女系男子、女性であれば女系女子となります。
女系天皇は、日本の歴史のどの部分を見てもその先例はありません。
天皇の皇位継承は先例に基づいて男系を維持してきましたが、女系は別の形で活用されています。それは、傍系継承の場合です。男系を維持することで、それまでの皇統と離れた人が天皇になることがありました。先例としては、継体天皇、光仁天皇、光格天皇が挙げられます。
継体天皇は、応神天皇の五世の孫としてその前の武烈天皇から見れば、皇統が離れ過ぎてしまいます。仁徳天皇の系統が武烈天皇で途絶えてしまったことから、傍系継承として継体天皇になりました。そして武烈天皇の妹の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が皇后となります。
継体天皇は、男系としては五世の孫です。しかし手白香皇女と婚姻したことで、女系としては武烈天皇の妹であり、仁賢天皇の皇女でもある人を皇后に迎えたため、国民から見れば馴染みない天皇ではあるものの、女系として見た時に馴染み深い皇統になります。つまり継体天皇は、手白香皇女を皇后にすることで、「女系として仁徳天皇の皇統近づける」という方法を行いました。
皇室の皇統は万世一系といわれるように男系を一番の優先事項にしていますが、女系としてそれまでの皇統に近づけるという方法も行っています。
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天皇の歴史を見るに当たって大きく、「神話」「伝承」「歴史」で分けることができ、「歴史」はさらに古代、中世、近世、近代と分けられます。近代までの天皇について、どのような人物がいてとくに重要な先例に何があったかを中心にご紹介します。
天皇は実在性を問わず古事記や日本書紀の記述どおりであれば、天照大神が祖先神となります。古事記は日本最古の書物であり、日本書紀は最古の歴史書です。神話の内容の信憑性はともかくとして、日本民族としての確信や日本の国柄が体現されています。
天照(あまてらす)大神は、伊邪那岐(いざなぎ)命が黄泉の国から帰って来た際に、神社の祓詞(はらえのことば)にも出てくる「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)」で禊(みそ)ぎを行った時に誕生した神です。
天照大神は日を「知ろしめす」神として、伊邪那岐命から高天原の統治を委任されます。「知ろしめす」とは、人々の知らせを聞いて治めるという、統治の意味です。「知ろしめす」は、古語の「シラス」のことであり、日本的統治を指す言葉として使われます。
天照大神は弟神である須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原に赴いて、そこで暴虐を尽くし耐えていました。しかし機屋で神に奉げる衣を織っていた時に、須佐之男命が機屋の屋根から皮を剥いだ血まみれの馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が刺さって死んでしまいます。今まで怒らなかった天照大神も遂に怒り、天岩戸に籠ってしまいます。天岩戸に籠ったことで、高天原が暗くなり、地上である葦原(あしはら)の中つ国も暗くなってしまい、あらゆる災いが起こりました。
天照大神不在の中、他の神々が天安河原に集まって話し合います。神々の話し合いの末、天照大神を迎えるための祭祀を行うことで結論が出ました。
祭祀を行うために、三種の神器のうち、八咫鏡と八尺瓊勾玉を作成します。ちなみに三種の神器のうち剣である天叢雲剣は、須佐之男命が八岐大蛇を退治したときに尻尾から出てきたものを天照大神に謙譲し、これら三種の神器を皇位の正統性を表すものして受け継がれています。
その後天照大神は、岩の外で賑やかにしていることが気になって岩戸から出てきます。天照大神が戻ったことで、高天原や葦原の中つ国に日が戻りました。暴虐の限りを尽くした須佐之男命は、神々の話し合いによって、高天原からの追放が決定されます。
葦原の中つ国は出雲を中心に大国主神が支配していました。この「支配」のことを「ウシハク」といいます。ウシハクとは、ウシは主人、ハクは身に着けるという意味で、主人が身に着ける物や家畜を指すことから、支配の意味です。シラスの対義語として使われます。
大国主神による支配によって、葦原の中つ国が乱れていることがわかりました。そこで葦原の中つ国を平定するために、神々が遣わされ、その後大国主神によって国譲りがなされました。
国譲りがなされたことで、天照大神は皇孫(すめみま)である邇邇芸命(ににぎのみこと)を始めとする神々が天降ります。天孫降臨する邇邇芸命に向けて天照大神より3つの神勅が出されました。
天壌無窮の神勅では、葦原の中つ国の統治者が天照大神より続く皇孫を始めとする皇統が継承して統治することを表しています。
葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるへき地(くに)なり。宣(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行(さまく)矣(ませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当(まさ)に天壌(あまつち)と窮(きはま)り無けむ。
秋になると稲穂が良く育つ葦原の国は、私より続く皇孫が統治しなさい。天孫が継いでいく限り、この正しい系統が栄える限り、この天と地は永遠に行き詰ることはありません。
宝鏡奉斎の神勅は、天岩戸神話に出てきた、八咫鏡を天照大神だと思って祀ることを表しています。
吾が児(みこ)此の宝鏡(みたからのかがみ)を視(み)まさんこと、当(まさに)吾(われ)を視るかことくすへし。与(とも)に床(みゆか)を同くし殿(みあらか)を共(ひとつ)にし、以(もち)て斎鏡(いはひのかがみ)となすへし。
この鏡(天照大神が瓊瓊杵尊に渡した三種の神器の一つ、「八咫鏡」を指す)を私と思って大切に祀りなさい。またいつも同じ床、同じ屋根の下に必ず置いてしっかり祀りなさい。
斎庭稲穂の神勅は、稲穂を育てて民を養いなさいと表しています。
吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を以て、亦(また)吾が児(みこ)に御(まか)せまつるへし。
我が子(直系の代々の天皇)に高天原にある神々へ捧げるための神聖な稲穂を作る田んぼで出来た穂を与えますので、これを地上で育て主食とさせ国民を養いなさい。
天皇には実在性不確かな天皇がいます。古事記や日本書紀に記載されている内容をそのまま信じることはできず、しかしまったく虚構とするわけにもいかないため、神話ではなく歴史ともいえない時代の天皇として伝承上の天皇としています。
神武(じんむ)天皇は、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と玉依姫(たまよりひめ)との間の子で、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)という名です。
この時期、大和系と出雲系の豪族に別れており、神日本磐余彦尊の父親が大和系で、玉依姫の母親は出雲系となります。その2人の婚姻によって誕生したのが神日本磐余彦尊です。神日本磐余彦尊は、宮崎県から関西地方まで東征して、畝傍山の東南橿原の地において、始馭天下之天皇(はつくにしろしめすすめらみこと)として即位し、日本が建国されます。
この即位日が神武天皇元年1月1日であり、これを新暦に換算すると2月11日であり、現代では建国記念日となっています。
神武天皇が即位してからそれ以後の天皇は、天皇が変わるごとに新しい場所に都を造る歴代遷宮を行って元旦に天皇が即位する先例となりました。
綏靖(すいぜい)天皇は、神武天皇と皇后媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)との間の第三皇子で、神沼河耳命(かむぬまかわみみのみこと)という名です。
腹違いの兄の多芸志美美命(たぎしみみのみこと)に政事を任されており、神武天皇の服喪の期間に権力をほしいままにし、二人の弟を殺そうとします。しかし神沼河耳命は、兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と共に、多芸志美美命を襲い、討伐しました。
討伐の際に兄の神八井耳命は多芸志美美命を目の前にして討つことができなかったことから、皇位は弟に譲り、自らは弟を助けるため神祇を司ることになります。
吾は仇(あた)を殺すこと能わず。汝命(いましみこと)既に仇を得殺しらまいき。故、吾は兄なれども上(かみ、天皇)となるべからず。ここをもちて汝命上となりて、天の下治らしめせ。僕は汝命を扶(たす)けて、忌人(いわいびと、神祇を行う人)となりて仕えて奉らむ。
皇位と神祇を分けることになり、しばらくは第二子が統治権をもつ天皇となり、第一子が祭祀権が与えられる先例が作られました。なお、綏靖天皇から開花天皇は実在性不確かな天皇として欠史八代とされており、後世の創作によるものと見られています。
崇神(すじん)天皇は、開化天皇と皇后御間城姫(みまきひめ)との間の第二皇子で、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのみこと)という名です。
崇神天皇は、4名の皇族をそれぞれの地域に派遣し、平定したという話があります。大彦命(おおひこのみこと)は北陸に、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海に、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道に、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)を丹波に将軍(いくさのかみ)として遣わされることになります。これを四道将軍といいます。
九月丙戌朔甲午、大彦命を以ては北陸に遣し、武渟川別を東海に遣し、吉備津彦を西道に遣し、丹波道主命を丹波に遣したまう。因りて以て詔して曰く、若し教を受けざる者有らば、乃ち兵を挙げて之を伐て。既にして共に印綬を授いて将軍と為たまう。
印綬とは、天皇による任命の印のことで、天皇の命をもってそれぞれの地域の将軍として軍事指揮権を委任された証を示すものです。出征する将軍などに持たせる任命の印としての刀である「節刀」や、明治以降に置かれた名誉職である元帥への刀剣下賜も同じ意味となります。
なお崇神天皇はヤマト政権の実質的な創始者として御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)として、実在した可能性のある天皇とされていますが、確かなものはありません。また応神天皇以降の皇統とのつながりも懐疑的で、「王朝交代説」もあるため確かなことはわからない状況です。
神功皇后は、開化天皇玄孫の息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)と渡来人の新羅王子天日矛(あめのひぼこ)の末裔の葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)との間の子で、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)という名です。仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母にあたる人物になります。
日本書紀において神功皇后を摂政として他の天皇に準じた扱い方をしているのが特徴で、明治以前には皇后による臨時の王朝として女帝とされた時代もありました。
女帝については、扶桑略記に、女帝の始まりという表記や播磨国風土記と摂津国風土記にも天皇という表記がみられます。
神功天皇 十五代 治六十九年 王子一人即位 女帝始之
しかし大正15(1926)年10月に神功皇后は天皇から外されました。
神功皇后は女帝というよりは、仲哀天皇が崩御し、皇后による臨朝つまり大王の代行者として熊襲の討伐や三韓征伐を行っています。三韓征伐は、応神天皇を身籠ったまま朝鮮半島に渡り、百済、新羅、高句麗を退治し、その後百済からの帰化人が流入しました。帰化人で有名な氏族は秦氏という氏族です。
天皇が崩御したのち、次の天皇が決まる前に即位せずにそのまま政務を執り行うことを称制といい、後の中大兄皇子や鸕野讃良(うののさらら)皇后の例にもあり、これと同義に捉えることもできます。また蘇我馬子が推古天皇を女帝にする際の先例は、神功皇后に則っています。
神功皇后を摂政元年としているのは、応神天皇を身籠っていることから摂政として政務を行ったと捉えることもできます。
冬十月癸亥朔甲子、群臣皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳辛巳、即ち摂政元年と為す。
日本の歴史の古代区分は、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代です。それぞれの時代の天皇や皇族について簡単に紹介します。
古墳時代は考古学上の時代区分であり、前方後円墳などの古墳が造られた時期です。古墳時代の天皇の範囲を応神天皇から崇峻天皇の時代としています。
仁徳天皇は、応神天皇と皇后仲姫命(なかつひめのみこと)との間の第4皇子で、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)という名です。幼い頃から聡明で知られていました。
仁徳天皇の特筆すべきことといえば、民の竈伝説です。天皇が高い山から国を見渡すと、どの家からも竈から煙が昇っていませんでした。天皇は民が炊事もできない程貧しい状況であることを知り、以後3年間、課税を取りやめます。それから3年後になって再び高い山から国を見渡すと、家から煙が昇っていくようになりました。しかし以後も課税を取りやめます。やがて宮中の屋根の破損や、雨漏りもあって、民が率先して税金を納めて宮中を立て直すようになりました。そのことから聖帝(ひじりのみかど)と称えられます。
また仁徳天皇の治世は、灌漑や治水などの公共事業を行っていて、その功績もあって、大阪府堺市の大山古墳、全長486メートルの日本一大きい前方後円墳が造られました。大山古墳は仁徳天皇陵に比定されていますが、現在では疑問視されているため「仁徳天皇陵」と呼ばれていません。
雄略天皇は、允恭天皇と皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)との間の第5皇子で、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけのみこと)という名です。すでに前述していますが、稲荷山古墳出土鉄剣銘と江田船山古墳出土大刀銘で実在性が確認できる天皇とされ、そこには5世紀後半の大和朝廷の支配権は関東から九州中部地域にまで及んでいた可能性が想定されています。
日本書紀の雄略天皇の記述では、残酷な天皇として知られています。その所以は、即位前に眉輪王(まよわおう)の変という事件を原因としています。
まず允恭天皇の前の天皇の安康天皇が、叔父の大草香皇子(おおくさかのみこ)が天皇に反抗しているのではないかということで皇子を殺害してしまいます。それを知った大草香皇子の子供である眉輪王が父の仇討ちのため安康天皇を暗殺します。その報告を聞いたのちの雄略天皇は、兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)が眉輪王討伐に立ち上がらなかったことから、暗殺側の一味として切り殺してしまいました。
また安康天皇の兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)のもとに確認しますが消極的な返事しかしませんでした。その後坂合黒彦皇子は、眉輪王とともに当時の有力豪族の葛城円(かつらぎのつぶら)大臣の屋敷に逃げ込みます。そして雄略天皇は兵を集めて葛城円の屋敷を包囲し、そこで葛城円の娘の韓媛(からひめ)と所領の「葛城の宅(いえ)、七区(ななところ)」(『古事記』では「五処(いつところ)の屯宅(みやけ)」を差出して許しを乞いますが、認められず焼き殺されてしまいました。
その後葛城系皇族も、さらなる復讐の芽を摘むため殺害され、それが間接的な原因となって、後に武烈天皇の代で仁徳天皇から続く皇統が断絶してしまいます。つまり皇統断絶の間接的なきっかけを作ったのが雄略天皇でした。
継体天皇は、応神天皇の五世の孫で彦主人王(ひこうしのおおきみ)と垂仁天皇7世の孫の振媛(ふりひめ)との間の子で、男大迹尊(をほどのみこと)という名です。
武烈天皇に皇嗣がいなかったため、応神天皇の五世の孫である男大迹尊が招聘され、大連の大伴金村などの群臣に従って即位することになりました。これを傍系継承といいます。
天皇(武烈)既に崩(かむあが)りまして、日続(ひつぎ)知らすべき王無かりき。故(かれ)、品太(ほむだの、応神)天皇の五世(いつつぎ)の孫(ひこ)、袁本杼(をほどの)命を近つ淡海(あふみ)より上りまさしめて、手白髪(たしらか)命に合はせて、天の下を授け奉りき。
継体天皇は傍系継承であるため、仁徳天皇以来の皇統とは離れ過ぎてしまいます。そこで武烈天皇の妹であり、仁賢天皇の皇女である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后として迎え入れることで、女系として仁徳天皇の系統を受け継ぐことになりました。つまり男系としては五親等離れるものの、女系としては二親等になり、仁徳天皇以来の皇統から見れば近くなります。
男系から見れば遠い系統も女系によって近くする先例の初見であり、その後の時代においても活用される先例となりました。
次の天皇である安閑天皇とその次の天皇の宣化天皇は、尾張氏の尾張目子媛(おわりのめのこひめ)を母親としており、異母兄弟の欽明天皇と比べると陵の規模も差が出ているため、女系として系統を繋いでいるかいないかで区別もされています。
欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女との間の皇子で、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という名です。
欽明天皇の治世に仏教が伝来します。欽明天皇が外来宗教である仏教を受け入れた後は、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏、中臣氏を中心に論争が起こりました。論争は抗争へと変わり、蘇我稲目と物部尾輿の対立から、子の蘇我馬子と物部守屋に持ち越されます。この抗争を丁未の乱(ていびのらん)といい、どちらかの宗教を消滅させるまで抗争するわけではなく、仏教を受け入れることで終息しました。
飛鳥時代は、広義に難波宮や飛鳥の地に宮が置かれた崇峻天皇5(592)年から平城京へ遷都する和銅3(710)年までの時代、狭義には推古天皇元(593)年から藤原京へ遷都する持統天皇8(694)年までとする2つがあります。飛鳥時代の天皇の範囲を推古天皇から元明天皇の時代としています。
推古女帝は、欽明天皇と蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)との間の皇女で、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)という名です。額田部皇女は、先々代の天皇である敏達天皇の皇后でした。
崇峻天皇5(592)年に崇峻天皇が蘇我馬子の指図によって暗殺されてしまいます。そこで蘇我馬子に請われて額田部皇女を竹田皇子の中継ぎとして即位させます。大王代行として臨朝を行った神功皇后の先例がありましたが、女性天皇として即位した先例の初見となりました。
群臣(まえつぎみたち)、渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)の皇后、額田部皇女に請(まお)して、践祚(あまつひつぎしら)しめむとす。
推古天皇が即位すると竹田皇子は、すぐに薨去してしまいます。その後、甥の厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子とし、蘇我馬子に反感を買われないようにバランスを取ったとされています。
聖徳太子は、用明天皇と穴穂部間人皇女との間の第2皇子で、厩戸皇子という名です。
推古天皇の時代、日本の歴史上始めての摂政となり、冠位十二階や十七条憲法、天皇記や国記の編纂などを行いました。
夏四月庚午朔巳卯、厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子(ひつぎのみこ)と為す。仍て摂政を録し、万機を以て悉(ことごと)く委ねたまう。
仲哀天皇の崩御後に、神功皇后が後の応神天皇を身籠っていました。そこで大王の代行者であると同時に摂政と日本書紀にあることから摂政の初見といわれます。しかし摂政よりも大王の代行者として臨朝であったことから、聖徳太子が摂政の初見となります。
十七条憲法とは、推古天皇12(604)年に聖徳太子が作成した十七条からなる法文書です。しかし憲法という名がついていますが、現在のような近代憲法典ではありません。
まず「憲法」の「憲」はノリといい、ノリは「宣」ともいいます。これは天皇が公に発する意思表明を意味し、それを「命(みこと)を宣(の)る」といい、文書化によって「詔(みことのり)」となりました。つまり「詔」は民の従うべき掟であり、「法」という意味です。
外交面においては、隋に渡した国書があります。推古15(607)年の第2回遣隋使において小野妹子が、隋の皇帝煬帝に宛てた国書を携えて派遣されます。
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや
国書の内容を見た煬帝は、天子という文言が入っていたことで激怒してしまいます。煬帝から見れば天子は、中華皇帝だけを表わすものであり、周辺諸国の最高位は「王」でした。いわば周辺諸国の王が、無礼にも天子という言葉を用いて対等関係であるかのようにしたためです。しかしその後、無礼な倭国に対して戦争を仕掛けることもなく、国内で反乱が起きて隋は滅亡してしまいました。
皇極女帝は、茅渟王(ちぬのおおきみ)と吉備姫王(きびひめのおおきみ)との間の皇女で、天豊財重日足姫尊(あめとよたからいかしひたらしひめのみこと)です。また舒明天皇の皇后でした。
皇極女帝は、乙巳の変によって蘇我入鹿が討たれ蘇我蝦夷が自害すると、その翌日には軽皇子(かるのみこ)に譲位しました。
庚戌、位を軽皇子(かるのみこ)に譲り、中大兄を立てて皇太子と為(し)たまう。
是の日に、号を豊財(とよたから)天皇に奉りて皇祖母尊と曰(まお)す。中大兄を以て皇太子と為たまう
そして新天皇の孝徳天皇から、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の尊号を送られました。乙巳の変によって、譲位と太上天皇の前身としての先例が2つ作られます。
孝徳天皇は、茅渟王(ちぬのおおきみ)と吉備姫王(きびひめのおおきみ)との間の皇子で、軽皇子という名です。皇極女帝の弟に当たります。
孝徳天皇は、乙巳の変後皇極天皇から譲位され即位しました。即位から数日後に初めての元号である大化が使用されます。
天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年と為す。
大化の改新の新体制として、大夫(まえつぎみ)の筆頭として朝廷の重鎮であった阿倍内麻呂(あべのうちまろ)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだのいしかわのまろ)を右大臣として、従来の大臣を左右に分けます。中臣鎌足は内臣(うちつおみ)に任じられ、天皇や皇太子の輔佐役になりました。隋や唐に留学した僧旻(そうみん)と高向漢人玄理(たかむこのあやひとくろまろ)を国博士に任じて、中大兄皇子の政治顧問としています。
大化2(646)年には、改新の詔が出され、今までの政治体制が終焉し、新たに中国の律令を模範とした新しい政治体制が誕生しました。
天智天皇は、舒明天皇の第2皇子で皇極天皇が母であり、葛城という名ではあるものの中大兄皇子として知られています。斉明天皇崩御後、天皇に即位することなく称制として政務を行い、その後即位しました。中大兄皇子と中臣鎌足が起こした乙巳の変では、蘇我馬子を暗殺し、新しい政治体制を構築しています。
天智天皇の治世では、白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗退し、朝鮮半島に関わることができなくなり、防衛線を対馬に置いて、北九州の守りを固めました。また中臣鎌足が病に倒れた際には、その臨終の際に冠位の最上位である大織冠と藤原姓を与えます。
天智天皇の崩御後は、弟の大海人皇子と皇子の大友皇子による壬申の乱が起こり、勝利したのが弟の大海人皇子で、のちの天武天皇となりました。
壬申の乱は、それまで皇位継承が兄弟継承だったものから直系継承へ変えようとして起きた争いです。この兄弟継承から直系継承への転換は、天武天皇の勝利によって挫折することになりますが、以降その方針を受け継いでいく流れはできました。大宝律令の継嗣令には、「三位以上の継嗣については、みな嫡子(=嫡妻の長子)が相承すること。」と嫡子継承を原則として規定されています。
天武天皇は、舒明天皇の第2皇子で皇極天皇が母であり、大海人皇子という名です。天智天皇の皇子である大友皇子に勝利したことで即位し、その後天武天皇の系統が称徳天皇まで続きました。
天武天皇は皇族を要職につける皇親政治の初見であり、律令制を導入し、藤原京の造営や、飛鳥浄御原令の制定、古事記と日本書紀の編纂も始まります。そして「大王」から「天皇」を称号とする初見でもあります。
持統女帝は、天智天皇と遠智娘(おちのいらつめ)との間の皇女で、鸕野讚良(うののさらら)という名です。持統女帝は15歳の軽皇子(かるのみこ)に譲位することになったため、太上天皇の尊号を称した初見となりました。軽皇子は文武天皇のことです。
譲位した天皇には皇極天皇がいますが、その時は皇祖母尊として、太上天皇とは別の扱いとされています。
文武天皇は、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子と阿陪皇女(あへのひめみこ)との間の第1皇子で、軽皇子という名です。文武天皇の治世において、大宝律令の完成や、大宝元年以降一度も途切れることなく現在の「令和」まで元号が続きます。
また大宝律令において初めて「日本」の国号が定められ、遣唐使を派遣し、国号が「倭」から「日本」の表記に変わったことを通告します。しかしどちらも「やまと」と読むため、手違いからか『旧唐書』において「倭国伝」と「日本伝」の2つが併記されることになりました。
奈良時代は、和銅3(710)年の平城京遷都から、延暦13(794)年に平安京に遷都されるまでの時代です。奈良時代の天皇の範囲を元正天皇から桓武天皇の時代としています。
元正女帝は、草壁皇子と元明女帝との間の長女で、氷高・日高(ひだか)または新家(にいのみ)内親王という名です。元正女帝をもって女系天皇の先例といわれることがあります。
大宝律令の継嗣令には、「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること(女帝の子もまた同じ)」とあります。そして元明女帝の子になるため、女系天皇の先例といわれます。しかしこの時期は、皇族同士の婚姻が前提となり、以後の歴史の中で女帝と婚姻して皇配となった人の子供、つまり女帝の子が皇族となる先例が作られることはありませんでした。つまり現在議論されている女系天皇の先例にすることは難しいといえるでしょう。
光明皇后は、藤原不比等と県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との間の子で、藤原光明子という名です。のちに聖武天皇の皇后になりました。
長屋王の変後、天平元(729)年8月に藤原光明子を皇后にする詔が発せられます。
天つ位に嗣ぎ坐すべき次(つぎて)と為て皇太子侍りつ。是に由りて其のははと在らす藤原夫人を皇后と定め賜ふ
皇族以外から立后された初見です。以降、藤原氏の子女を始め現在まで皇族以外の人が皇后になる先例となりました。また光明皇后は、仏教の慈悲の思想に基づいて、貧しい人や孤児を救うための施設として「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善活動も行っていました。
称徳女帝は、聖武天皇と光明皇后との間の皇女で、阿倍皇女という名です。またその前に孝謙女帝として即位し、その後重祚した女性天皇になります。
称徳女帝の治世において皇室簒奪を目論んだといわれる弓削道鏡による道鏡事件が起こりました。
大宰府の主神(かんづかさ)である中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)は、道鏡が皇位につくべきあるという宇佐八幡の託宣があったことを朝廷に報告します。その真相の真偽を確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に派遣されます。そこで託宣は虚偽あるとして、神護景雲3(769)年7月11日に宇佐八幡宮にて和気清麻呂に託宣を受けました。
我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。
その後、道鏡を皇位につかせたいと考えていた称徳女帝によって、和気清麻呂を因幡員外介(いなばのいんげのすけ)に左遷し、さらに名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に配流させます。しかし称徳女帝の崩御後、後ろ盾がなくなった道鏡は罪に問われ、下野国の薬師寺に左遷されることになりました。和気清麻呂は大隅国から呼び戻され、入京を許されます。
桓武天皇は、天智天皇の孫の光仁天皇と高野新笠妃(たかののにいがさひ)との間の皇子で、山部王という名です。生母の高野新笠妃は、百済の武寧王の子孫となります。
桓武天皇の治世において、平城京から平安京に遷都し、以後明治になるまでの都となりました。また蝦夷や東北地方の平定のために、征夷大将軍として大伴弟麻呂を派遣し、副将軍の坂上田村麻呂が大きな戦果を挙げます。
延暦十三年(七九四)正月朔(一日)条 征夷大将軍大伴弟麿に節刀を賜う。
これは、征夷大将軍の初見となります。その後、蝦夷征討の任務を坂上田村麻呂に代わり、東北が平定されました。
延暦十六年(七九七)十一月五日条 従四位下坂上大宿禰田村麻呂を征夷大将軍と為す。
桓武天皇より前の天皇は践祚がなく即位のみでしたが、桓武天皇から践祚を経て即位します。践祚がない時代は、殯(もがり)の葬送儀礼が長い時間をかけて行われており、終わるまでは即位できません。先帝崩殂(ほうそ)から新帝即位までの期間が長く、政争などがしばしば起こることもあるため、新帝を確定させる意味として践祚と即位が分離されたと考えられています。
天皇(スメラミコト)は死を迎えるものの、スメロキは新帝に受け継がれるため死ぬことがないという意味です。イギリスでも「国王は死なず(the king never dies)という言葉があり、国王が崩御したら直ちに王位継承者が即位します。すでに桓武天皇の治世から「国王は死なず」が定着することになります。
平安時代は、延暦13(794)年の平安京遷都から、建久3(1192)年の源頼朝が征夷大将軍に就任して鎌倉幕府が形式的に成立するまでの時代です。平安時代の天皇の範囲を平城天皇から安徳天皇の時代としています。
嵯峨天皇は、桓武天皇と皇后藤原乙牟漏(おとむろ)の間の第2皇子で、神野・賀美能(かみの)という名です。南北朝時代に北畠親房が書いた神皇正統記において、特筆された天皇でもあります。
嵯峨天皇の治世は、藤原冬嗣や藤原緒嗣、源常らが政治を行い、嵯峨天皇はいわば「君臨すれども統治せず」を体現し、政局が安定し平安文化が花開く平和な時代でした。後に「弘仁の治」と呼ばれます。
また朝廷において怨霊への恐れから、保元の乱の時期まで死刑が廃止されました。
清和天皇は、文徳天皇と藤原良房の娘で女御明子との間の第4皇子で、惟仁(これひと)という名です。即位したのがわずか9歳であったため、外祖父である藤原良房が太政大臣として執政を行います。
のちに摂政と呼ばれるようになるのは、貞観8(866)年8月19日で、摂政宣下の勅が出されます。
太政大臣に勅(みことのり)す。天下の政と摂り行えと。
摂政宣下によって藤原良房が臣下で始めて摂政になりました。人臣摂政の初見であり、幼帝の初見でもあります。清和天皇が元服するまでの期間、天皇を後見する役目を担いました。
この時から、天皇の后の外戚である藤原北家の一族が摂政や関白あるいは内覧として政治の実権を握る、摂関政治の始まりです。
光孝天皇は、仁明天皇と藤原総継(ふじわらふさつぐ)の娘で女御沢子の第3皇子で、時康という名です。
先帝の陽成天皇の時の摂政であった藤原基経が先帝の退位に伴い、皇位継承者の人選を行い、時康親王を擁立して即位しました。即位後の元慶8(884)年6月5日、藤原基経へ宣命を下します。
今日より官庁に坐して、就て万政を領り行ひ、入りては朕の身を輔げ、出ては百官を統ぶべし。応に奏すべきの事、応に下すべきの事、必ず先づ諮稟せよ。朕将に垂摸して戌を仰がむ。
この宣命に準ずる先例はなく、また摂政とは異なり、政治に関する新たな職務を委任したものとされており、関白の初見とされています。
宇多天皇は、光孝天皇と班子(はんし)女王との間の第7皇子で、定省(さだみ)という名です。定省親王は、前述したように臣籍降下して源定省として源氏の姓を賜ることになります。しかし任和3(887)年に光孝天皇の発病によって、藤原基経が皇位継承者の人選として、臣籍降下した源定省を親王に復帰させ、皇太子にしました。元皇族が皇籍復帰して、天皇になった先例です。
宇多天皇即位後の仁和3(887)年11月、藤原基経へ詔を下します。
其万機巨細、百官を己に惣べ、皆太政大臣に関(あずか)り白(もう)し、然る後奏下、一に旧事(元慶八年)の如くせよ。
詔に出てくる「関(あずか)り白(もう)す」は関白の語源であり、関白という語の初見とされています。起源は漢書です。
この後、宇多天皇と藤原基経に阿衡の紛議が起こるものの、翌年には収まり仁和4(888)年に宣命を下しました。
今より以後、衆務を輔け行ひ、百官を統べ賜へ。応(まさ)に奏すべきの事、応に下すべきの事、先の如く(元慶八年)諮稟(しりん)せよ。朕将に垂拱(すいきょう)して成を仰がむ。
関白の成立過程には諸説があるものの、始めて関白の地位に就いたのは藤原基経です。関白藤原基経の死後、宇多天皇が親政し、政治改革が推し進められることになり、後に寛平の治と呼ばれるようになりました。
政治改革を推し進めるに当たって菅原道真を登用し、皇位継承問題についての発言が許されるなど宇多天皇との信頼も厚かったです。そして宇多天皇の治世が最後の遣唐使となり、遣唐使を廃止させる建議によって、廃止となりました。
醍醐天皇は、宇多天皇と藤原胤子(いんし)との間の第1皇子で、臣籍降下した源定省の頃に生まれた天皇で、源維城(これざね)といいました。
宇多天皇が皇籍復帰したのち、息子の維城も皇籍に列することになり、親王宣下し敦仁(あつぎみ)の名を与えられ親王になります。旧皇族が皇籍復帰して、天皇になった先例です。
宇多天皇の訓示として寛平御遺誡を受けて藤原時平と菅原道真を左右大臣として政務を任せ、形式上は天皇親政として、後に延喜の治と呼ばれる善政を行いました。
後一条天皇は、一条天皇と藤原道長女で中宮彰子(しょうし)との間の第2皇子で、敦成(あつひら)という名です。三条天皇の譲位によって践祚し、数え8歳で即位しました。皇后は道長の三女の威子(いし)が立てられ、藤原道長の娘から皇后、皇太后、太皇太后の三后が実現します。
藤原道長は、後一条天皇の摂政をわずか1年で子の頼道に譲り、太閤として摂政を後見する立場となります。有名な「望月の歌」があり、この頃に詠まれています。
寛仁二年十月十六日条 この世をば、我が世とぞ思ふ、望月のかけたる事もなしと思へば
また藤原実資が書いた日記に小右記があり、道長を批判的に書いています。
寛仁二年六月二十日条 当時太閤(道長)の徳(権力)、帝王の如し。世の興亡、只我心に在り
藤原摂関政治の最盛期の時代であり、藤原道長は栄華を極めました。ただし中国やヨーロッパのように藤原道長自身が天皇または王に成り代わるわけではありません。天皇に成り代わろうとした前例に蘇我氏や弓削道鏡がありました。実際に藤原氏が天皇または王に成り代わる存在になれば、滅亡の危険性を伴うため、危険を犯すよりも天皇の権威を利用して権力を握る方が政治をやりやすかったといえるでしょう。
太上天皇の尊号の事例ではありませんが、後一条天皇が皇太子を辞退した敦明親王に対し、太上天皇に準ずる小一条院の号を宣下された特例がありました。
後三条天皇は、後朱雀天皇と三条天皇第3皇女で皇后禎子との間の第2皇子で、尊仁(たかひと)という名です。即位前は、生母が藤原氏の出身でないことから関白藤原頼道に礼遇されていました。しかし治暦4(1068)年になると先帝である後冷泉天皇の崩御に伴い践祚します。
治暦3(1067)年に藤原頼道が関白を辞任し、後三条天皇の即位が確実となる中で、弟の教通に関白職を譲りました。後三条天皇は、摂関家の政権独占を打破するために、親政を行う姿勢を鮮明にし、さまざまな人材を登用しました。
そして延久の荘園整理令の実施に伴い記録荘園券契所が設置されます。これは荘園の所有権をめぐる公験(くげん)の審査を朝廷で審査するもので、とくに藤原氏についても厳しく対応することになりました。藤原氏の経済基盤である荘園を基準値まで没収されたため、朝廷の経済基盤確保とともに藤原摂関政治の陰りへと繋がりました。
白河天皇は、後三条天皇と藤原茂子(もし)との間の第1皇子で、貞仁(さだひと)という名です。白河天皇は、後三条天皇の譲位によって践祚しますが、天皇の治世よりも譲位して院政を始めたことが有名で、白河天皇の第2皇子である善仁(たるひと)親王に譲位し、院政を行います。
院政とは、天皇の父親や祖父が皇室の家長である「治天の君」として、天皇に代わって政治を行う体制です。摂関政治は天皇の母方の父親や祖父である藤原氏が摂政や関白、内覧となって政治を行うものに対する天皇の父方という点に違いがあります。
白河上皇の院政は、堀河、鳥羽、崇徳の3代40年以上に及び、院命が出なければ、関白だけで践祚の実行ができないなど、摂関政治の時代からみれば先例が新たに作られました。また上皇の出す院宣が、天皇が出す文書である綸旨に替わって最高の文書となり、上皇の意思が詔や勅と称されるようになります。
平家物語では、白河上皇の院政でできないものといえば、「賀茂川の治水」「すごろくの賽の目」「比叡山の山法師」をもって天下の三不如意といわれ、それ以外は何でもできると表現されました。
後白河天皇は、鳥羽天皇と中宮藤原璋子との間の第4皇子で、雅仁(まさひと)という名です。後白河天皇の治世は鳥羽上皇の院政時代であり、保元元(1156)年になると鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が起こります。
保元の乱は皇位継承問題や摂関家の内紛から、後白河天皇と崇徳上皇に分かれて争われ、平清盛や源義朝らの活躍によって後白河天皇側が勝利することになり、崇徳上皇は讃岐へ流されることになりました。その後3年で皇子の二条天皇に譲位し、上皇となって院政を開始します。しかし二条天皇は上皇による院政ではなく天皇による親政を考えており、後白河院政派と二条親政派の対立となります。
二条天皇に続き六条天皇が即位しますが、平清盛らの協力を得て退位させ、二条天皇の弟高倉天皇を即位させます。後白河上皇の権力が確立しますが、平家との間に軋轢が生じます。そして平家打倒のため寺社勢力と協力するために動き出したため、治承3(1180)年になると平清盛らによって後白河法皇は幽閉されました。これを主君押し込めといいます。
主君押し込めとは、もし主君を殺害してしまえば、「王殺し」として汚名が残るほか、権力基盤が揺らぐことになるため、最高権力者を武力で脅迫、拉致、監禁し、幽閉や軟禁状態にしておき、その間に押し込めた側に有利な君主を立て、権力を握ることです。
高倉天皇と平清盛の娘である平徳子との間に生まれた安徳天皇を即位させ、平清盛が外祖父として藤原氏のような権力を持ちます。安徳天皇の即位に伴って皇位の望みを絶たれた以仁王は源頼政らとともに平家を打倒するため挙兵します。
平家側の戦局が劣勢に立たされ、平清盛も病気で亡くなる中、後白河法皇は院政を再開しました。その後木曽義仲によって再度幽閉されますが、源義経が上洛し木曽義仲を討つことで、再度院政を開始します。
後白河法皇は、源義経らに命じ平家追討に当たらせ、文治元(1185)年に壇ノ浦で平家を滅亡へと追いやりました。その後、源頼朝と義経の間に軋轢が生じ、後白河法皇も頼朝追討の宣旨を出したことで対立しますが、奥州藤原氏の討伐が契機となり、源頼朝と後白河法皇の間は正常化しました。
源頼朝は東国を中心に守護と地頭が設置され鎌倉において武家政権が作られていきます。源頼朝が武家の棟梁として征夷大将軍に任官するのは、後白河法皇が崩御してからです。建久3(1192)年7月12日に源頼朝は、朝廷より征夷大将軍に宣下され、鎌倉幕府が成立しました。
日本の歴史の中世区分は、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代です。それぞれの時代の天皇や皇族について簡単に紹介します。
鎌倉時代は、建久3(1192)年の鎌倉幕府の成立から、元弘3・正慶2(1333)年の鎌倉幕府が滅亡するまでの時代です。鎌倉時代の天皇の範囲を後鳥羽天皇から後醍醐天皇の時代としています。
後鳥羽天皇は、高倉天皇と殖子(しょくし)との間の第4皇子で、尊成という名です。寿永2(1183)年に源義仲の上洛に伴い、平家は安徳天皇を擁して三種の神器、守貞親王と西国へと移動しました。鳥羽天皇の嗣立以来、践祚儀の主宰は上皇でした。
そのため京都に留まっていた後白河上皇は、尊成親王を立て、三種の神器不在の中、上皇による伝国詔宣によって践祚しました。これにより、東の京都には後鳥羽天皇、西の福原には安徳天皇と東西に天皇が並び立つ二所朝廷となりました。しかし寿永4(1185)年の壇ノ浦の戦いによって安徳天皇が入水し、平家が滅亡したため、二所朝廷は解消されました。
建久3(1192)年に後白河法皇が崩御すると、形の上で天皇親政となりますが、建久9(1198)年になると4歳の為仁親王に譲位し、上皇となって院政を開始します。後鳥羽上皇の院政は、土御門、順徳、仲恭の3代23年に及びます。
鎌倉幕府成立後、源氏の3代は朝廷との関係を協調的にしていましたが、幕府側の執権北条氏が実権を掌握すると、次第に朝廷との確執が生じました。後鳥羽上皇も、討幕計画を進行させ、承久3(1221)年5月になると、後鳥羽上皇は執権北条義時追討の宣旨を発して挙兵します。
北条義時は、主上御謀反といって、後鳥羽上皇が権力を強めるために討幕する行為は、民を無視したものと考えていました。幕府側は、北条政子が御家人の結束を呼びかけ、兵を動員し、朝廷側の兵力と士気に勝り、わずか1ヶ月程で勝敗は決しました。
その後後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡へと流され、践祚したばかりの壊成王(九条廃帝)を廃位させ、後鳥羽上皇の兄行助(ぎょうじょ)入道親王(守貞親王)を治天の君の後高倉院として、その子後堀河天皇を新天皇として即位させました。
後高倉院は、高倉天皇と殖子との間の第2皇子で、後鳥羽上皇とは同母弟になります。守貞という名で、出家した後は行助(ぎょうじょ)入道親王と名乗りました。承久の乱後、後鳥羽上皇が隠岐に配流されたため治天の君がいない状態でした。
この時代、次の天皇を即位させるためには治天の君による伝国詔宣が必要になるため、父親である守貞親王を治天の君として、太上天皇の尊号を奉り、後高倉院の院号が贈られました。後高倉院は、天皇にならずに太上天皇になった不登極帝の初見です。
そして幕府は、後鳥羽上皇の流れではなく後堀川天皇を即位させました。
亀山天皇は、後嵯峨天皇と中宮西園寺姞子(きつし)との間の第3皇子で、恒仁(つねひと)という名です。後嵯峨天皇が、第2皇子である後深草天皇に退位を迫り、亀山天皇に践祚させましたが、後継者を指名することなく崩御したため、兄の後深草天皇系を持明院統(のちの北朝)として、弟の亀山天皇系を大覚寺統(のちの南朝)として2つの朝廷勢力が並び立ちます。
文永5(1268)年に、高麗の使者が、元のクビライ・ハンの国書を携えて大宰府に到着します。その国書が京都の朝廷に送られますが、幕府に委ねるために鎌倉に送ります。朝廷の外交大権を放棄する先例です。
幕府は蒙古襲来に備え、大宰府の守りを強化し、また朝廷も諸国の寺社に異国降伏(ごうぶく)の祈祷を命じます。亀山上皇が治天の君として院政を行っている時期に文永と弘安の2度の元寇に遭遇します。国難を乗り越えるために伊勢神宮へ「身を以て国難に代える祈願」に努めました。
また文永11(1274)年、蒙古襲来により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めています。文永の役と弘安の役で勝利を収めたのは、鎌倉幕府第8代執権の北条時宗でした。わずか18歳で執権に就任し、文永11(1274)年10月の文永の役は神風によって退け、弘安4(1281)年5月の弘安の役においては、実際に撃滅し、その後の神風によって撤退しました。
後醍醐天皇は、後宇多天皇と典侍忠子(ちゅうし)との間の第2皇子で、尊治(たかはる)という名です。後醍醐天皇は自ら後醍醐という諡号を決めていた唯一の天皇で、延喜・天暦の治として有名な醍醐天皇や村上天皇の時代を念頭に置いた理想の政治を実現するために親政を行いました。
天皇親政を行うには、鎌倉幕府の存在が邪魔であるため、討幕の志を持つ者達を集め、討幕運動を行います。三度の討幕運動の末、鎌倉幕府は崩壊し、後醍醐天皇は京都にて朝廷政治の復活を打ち出しました。
後醍醐天皇による建武の新政開始に伴い、公家や寺社の所領の安堵や、討幕の論功行賞を行うものの、「朕の新儀は未来の先例たるへし」として先例や慣行を蔑ろにします。また討幕の恩賞の不満や諸政策などの矛盾から混乱をきたし、遂には反建武政権運動に繋がります。後醍醐天皇は窮地に立たされ、吉野に移って南朝を樹立し、その後7男である義良(のりよし)親王に譲位し、崩御しました。
南北朝時代は、元弘3・正慶2(1333)年の鎌倉幕府が滅亡から元中9・明徳3(1392)年の南北朝合一までの時代です。南北朝時代の天皇の範囲を光厳天皇から後小松天皇の時代としています。
光厳天皇は、後伏見天皇と女御寧子との間の第1皇子で、量仁(かずひと)という名です。光厳天皇は、鎌倉幕府の推戴によって即位します。しかし後醍醐天皇の討幕によって、後伏見天皇ともども近江で捕らえられることになり、後醍醐天皇の詔によって廃位されました。
後醍醐天皇による建武の新政の失敗によって、足利尊氏が叛旗を翻し、尊氏の奏請により光厳上皇の弟の豊仁(ゆたひと)親王を皇位につけ、光厳上皇による院政が開始されます。
足利尊氏は、「建武式目」を制定し、建武5(1338)年8月11日に征夷大将軍に宣下されて室町幕府を開きました。同時期に後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立することで、持明院統の光明天皇と大覚寺統の後醍醐天皇の両統が並立する南北朝分立時代に突入します。
後光厳天皇は、光厳天皇と典侍秀子との間の第2皇子で、弥仁(いやひと)という名です。後光厳天皇の即位前の正平7(1352)年に観応の擾乱が起こります。
観応の擾乱とは、治天の君である光厳上皇、光明上皇、崇光上皇と皇太子直仁親王が南朝側に拉致されるという事件です。さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天の君、天皇、皇太子、神器不在の事態に陥りました。
幕府は、後伏見上皇の女御であった西園寺寧子(広義門院)を治天の君にして、光厳上皇の末子弥仁(いやひと)親王を擁立する案を出します。白河上皇からの先例として、天皇の践祚には治天の君による譲国の儀が必要です。譲国の儀では、治天の君の伝国詔宣によって天皇が践祚します。
幕府にとっては、天皇がいなければ武家の棟梁を征夷大将軍に宣下できなくなるため必要な措置でした。先例のない治天の君を登場させ、神器も神鏡を納めた空箱を神器に見立てて践祚を行いました。空箱を神器に見立てることを「如在の儀」といいます。
応安元(1368)年になると足利義満が征夷大将軍になり、応安4(1371)年に緒仁(おひと)親王に譲位し、院政を開始するものの間もなく崩御してしまいます。
後円融天皇は、後光厳天皇と典侍仲子(ちゅうし)との間の第2皇子で、緒仁(おひと)という名です。後円融天皇の治世は、足利義満が17歳から49歳までの間に、先例破りをしつつ先例に准じた行動を一つひとつ積み重ねることで天皇を超えた令外官「日本国王」として肉薄したため、日本の歴史上もっとも天皇の権威が失墜した時期でした。
永徳2(1382)年に皇子の幹仁(もとひと)親王に譲位し、実質も形式もない院政を開始するものの、足利義満によって蔑ろにされ明徳4(1393)年には崩御してしまいます。
後小松天皇は、後円融天皇と内大臣三条公忠(きんただ)の娘の厳子(いずこ)との間の第1皇子で、幹仁(もとひと)という名です。明徳3(1392)年に南朝の後亀山天皇から三種の神器を受け取り、南北朝合一がなされます。翌年の後円融天皇の崩御によって、足利義満はさらに皇室に肉薄し治天の君に准じて権勢を振るったため、後小松天皇はほぼ何もできない状態でした。
応永15(1408)年に足利義満は次男の義嗣を親王に准じた元服を行うも、その2日後に突然の病に倒れました。死後朝廷より「太上天皇」の尊号が贈られましたが、幕府は先例がないとして辞退します。
応永19(1412)年には皇子の実仁(みひと)親王に譲り、院政を開始します。後小松天皇の院政は、称光天皇、後花園天皇の治世まで続きました。足利義満によって天皇や皇室の権威が失墜させられましたが、室町幕府第6代将軍足利義教の時代の永享の乱になると、義教が後花園天皇に対して治罰の綸旨を発給する時期から、徐々に天皇や皇室の権威が復活します。
室町時代は、延元3・建武5(1338)年の足利尊氏の征夷大将軍の補任から元亀4(1573)年の足利義昭が織田信長に京都から追放されるまでの時代です。織田信長や豊臣秀吉が政権を確立した安土桃山時代は、元亀4(1573)年から徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8(1603)年の時代となります。
南北朝時代と被る部分を除き、室町・戦国・安土桃山時代の天皇の範囲を称光天皇から後陽成天皇の時代としています。
後土御門天皇は、後花園天皇と藤原孝長の娘の信子との間の第1皇子で、成仁(ふさひと)という名です後土御門天皇の治世において応仁の乱が始まります。
応仁の乱は中央から地方へと拡散したため長期化し、京都が荒廃したり、皇室や公家の所領が剥奪されたりしたため、朝廷財政が逼迫してしまいます。そのため朝廷の諸行事の多くが中止しました。
後土御門天皇の在位期間は36年間であり、比較的長く在位していました。その理由は朝廷財政が枯渇しているため譲位も難しいためです。そして明応9(1500)年9月に崩御しますが、遺骸は43日間置かれることになり、葬儀も満足に行われませんでした。
後奈良天皇は、後柏原天皇と女院藤子との間の第2皇子で、知仁(ともひと)という名です。後奈良天皇が即位礼を挙げたのは即位してから10年後であり、戦国大名の寄進によって実現できました。しかし大嘗会は挙げられず、歴代天皇では崇光天皇、後柏原天皇に次いで3人目です。
後奈良天皇は、戦国の荒廃した時代であっても、自己の役割を十分に踏まえ、疫病流行の際に般若心経を全国の寺社に納めるなど、民衆の平安を常に祈願していました。弘治3(1557)年9月に崩御しますが、遺骸は2ヶ月半置かれました。
正親町天皇は、後奈良天皇と万里小路賢房(かたふさ)の娘の栄子(えいし)との間の第2皇子で、方仁(みちひと)という名です。戦国時代の天皇は、朝廷財政が逼迫し、即位礼や葬送儀礼が満足にできない時代で、一般的に天皇の権威が失墜した時代ともいわれます。実際に天皇や皇室の権威が失墜した時代は足利義満が権勢を振るっていた後円融天皇と後小松天皇の時代でしょう。
後花園天皇の時代の永享10(1438)年の永享の乱から始まる治罰の綸旨の発給によって、天皇の権威が復活します。永享の乱以降、明応10(1501)年まで発給が激増しました。
治罰の綸旨とは、征伐の綸旨とも呼ばれ、いわゆる朝敵に対してその追討を天皇が命じ、天皇の秘書官である職事あるいは弁官と呼ばれる公卿が天皇の命を奉じて下す文書です。ちなみに、幕末において鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」は、天皇から治罰の綸旨が下された証です。
正親町天皇の治世は、織田信長と豊臣秀吉の2人の天下人が存在している時代であり、時代に翻弄されることなく天皇の立場を最大限に活かして天皇や皇室を復権させることに成功した人といえます。
織田信長は、戦争すれば天皇に和平調停を依頼したり綸旨を要請したりしていました。正親町天皇も信長の要請に応じ、さらに積極的に戦勝祈願も行っています。お互いに利用し利用される関係であるものの、時に信長が正親町天皇に譲位を迫ることもしています。しかし譲位を迫ろうとしても曖昧な返事でかわしてしまいます。
羽柴秀吉は、小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れたことで、三河以東の地域に侵入ができなくなったため東国支配の実現が難しくなりました。つまり征夷大将軍任官の希望が断たれます。そこで秀吉は、全国支配の道として朝廷の官位に就くこと、そして天皇の名の下にその代官として領域支配を行うことに切り替えます。異例の早さで官位に昇任し、さらに近衛家の養子となることで正親町天皇から豊臣氏を賜姓され、関白の就任が決定しました。
関白豊臣秀吉を頂点として全国支配する体制を築き上げます。正親町天皇は、天正14(1586)年、孫の和仁(かずひと)親王に譲位し、文禄2(1593)年に崩御しました。
江戸時代は、慶長8(1603)年の徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた時から慶応4・明治元(1868)年の明治天皇が即位礼を行った時です。江戸時代の天皇の範囲を後水尾天皇から孝明天皇の時代としています。
後水尾天皇は、後陽成天皇と関白近衛前久の娘の前子(さきこ)との間の第3皇子で、政仁(ことひと)という名です。
徳川幕府が開かれた元和元(1615)年に武家法である武家諸法度だけではなく、皇室や公家に対する法令である禁中並びに公家諸法度が制定されます。さらに仏教寺院に対する寺院諸法度、神社や神職に対する諸社禰宜神主法度が定められ、武家勢力だけではなく公家勢力や寺社勢力をも抑える程の権勢を振るいました。
寛永4(1627)年に紫衣事件が発生します。この年の7月に幕府は、元和元(1615)年以降に紫衣勅許を受けた禅僧に対して取り消しを含む禁制を出しました。紫衣とは、紫色の法衣や袈裟のことで、宗派問わず朝廷から賜るものです。
幕府が紫衣の授与を禁中並びに公家諸法度において規制したにも関わらず、従来の先例に基づいて紫衣勅許を与えてしまいます。これを幕府は法度違反として紫衣を取り上げるように命じたことで、朝廷が反発します。朝廷の面目が潰れたことで、後水尾天皇は激怒します。実際に法度が優先されたことで、天皇の勅許よりも幕府の法度の方が上位であることを示されました。
その後、後水尾天皇は幕府に相談することもなくまた気づかれないように、寛永6(1629)年11月8日の節会の儀として公家が集められたときに後水尾天皇が譲位し、興子内親王が即位することになりました。興子内親王は、後水尾天皇と徳川秀忠の娘である和子(東福門院)の第2皇女で、明正天皇になります。
後桜町女帝は、桜町天皇と関白二条吉忠の娘の舎子(いえこ)との間の第2皇女で、智子(としこ)という名です。女帝を擁立した多くの場合、皇位継承予定者が幼年のため直ちに即位できない事情から、中継ぎとして即位するためです。後桜町女帝の場合も甥の英仁親王が10歳になるまでの中継ぎとしての即位です。
後桜町女帝は、英仁皇太子のために帝王教育を行います。そして明和5(1768)年に英仁親王が立太子すると、譲位して後桃園天皇が即位しました。
しかし後桃園天皇は、在位9年目で病死してしまいます。後桃園天皇の子は、女御維子との間に生まれた欣子(よしこ)内親王1人しかいなかったため継嗣が不可能となりました。
そこで、天皇崩御の前に生母の一条富子と伯母の後桜町上皇が内談し、祐(さち)宮を養子にすることと、祐宮と欣子を親王宣下することなどの宸翰(手紙)によって結論が示されます。つまり血縁の遠い宮家から皇嗣を選ぶため、「親近親他に超え、天性聡明、至尊と仰ぐべき人体なり」(『広橋勝胤卿記』)との理由として、閑院宮家の祐宮は、兼仁(ともひと)親王で、後の光格天皇を立てることに決定します。
そして欣子を入内させることまで考え、帝王教育にも心配りしています。女帝は中継ぎのためといわれるものの、次の天皇になる人に帝王教育を教え育てる役割も担っていました。
光格天皇は、閑院宮典仁(すけひと)親王と岩室磐代(いわしろ)との間の第6皇子で、初めは師仁(もろひと)、のちに兼仁(ともひと)という名になります。光格天皇の即位は、3度目の皇統断絶の危機でした。
皇統断絶の危機に選ばれた皇族は、閑院宮家から閑院宮直仁(かんいんのみやすけひと)親王の第6皇子です。閑院宮家は、東山天皇の皇子であった直仁親王が創設した宮家となります。宮家創設に当って、新井白石が天皇を補完する家として徳川家宣に建言していました。
光格天皇は、後桃園天皇との血縁を考え、皇女である欣子内親王を皇后に迎え入れます。光格天皇以降の皇統が現在の今上天皇につながります。
光格天皇の治世では、松平忠信が寛政の改革というデフレ政策をやったことで、農民や庶民が飢饉で飢えるような状況でした。その状況に対して光格天皇は、幕府に対して失政を諫めます。
さらに文化8(1811)年に千島列島を測量していたロシア軍艦の艦長ゴローニンを捕縛するゴローニン事件が起こりました。その際に光格天皇は、幕府が行っている外交文書や外交交渉の経過を報告するように命じます。政治に関わる中で尊号一件が起きます。
尊号一件は、光格天皇が天皇に即位したことによって、父親である典仁親王よりも位が上がってしまいました。さらに禁中並びに公家諸法度において親王の序列は摂関家よりも下です。そこで光格天皇は、江戸幕府以前の先例にならい典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとします。しかし時の老中松平定信は、徳川家康が定めた禁中並びに公家諸法度は、江戸幕府にとっての祖法であるとして反対したため、太上天皇の尊号が贈られることはありませんでした。
しかし時の将軍である徳川家斉も、父である一橋治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていたため、尊号一件の対応によって、一橋治済の大御所の尊号も贈ることができなくなりました。松平定信は、一橋治済と徳川家斉父子の怒りを買って失脚してしまいます。
明治17(1884)年になり、典仁親王が明治天皇の高祖父にあたるため、慶光天皇の諡号と太上天皇の尊号が贈られました。ただし天皇に即位してはいないため、大統譜には記載されていません。
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憲法発布略図、楊洲周延画
天皇の制度は近代化によって大きな変化を生むことになり、その中でも変わらないものは残りました。近代化による大きな変化とは、立憲君主制を採用し、日本の国柄に沿った憲法を制定したことです。変わらないものでいえば、天皇と国民の紐帯は変わらず、むしろ近代以前であれば天皇自身は宮中にいて広く国民の前に姿を現すことがなかったため、より近い存在に感じられるようになりました。
近代の天皇や天皇と近代憲法典を中心にご紹介します。
日本の近代化に向けて1つの事件が起きます。嘉永6(1853)年にマシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本の浦賀に来航しました。奇しくもヨーロッパではロシア帝国とオスマントルコ帝国の戦争に、大英帝国やフランス帝国も介入して大きな戦争になるクリミア戦争の最中でした。その時期にアメリカが開港を迫ります。
翌嘉永7(1854)年に、日米和親条約と日米修好通商条約のいわゆる不平等条約を締結し、その後アメリカやロシア、オランダ、フランスなどとも条約を結びます。
国内では江戸幕府に政権担当能力がなくなり、反幕府勢力が台頭するものの幕府の公武合体によって批判は封じ込められてしまいます。しかし公武合体策が失敗すると、薩摩や長州を主体とした反幕府勢力によって武力倒幕が行われようとしました。
幕府の最後の将軍である徳川慶喜が機先を制して大政奉還を行います。大政奉還とは、天皇が国家統治を征夷大将軍に委任しており、その国家統治の「大政」を天皇に返上することです。慶応3(1867)年12月9日になると王政復古の大号令が発せられ、徳川家による幕府政治や京都の律令体制といった既存の制度を廃止し新たな制度を作るために役職が設置されました。
薩摩や長州は、将軍がもっている官職や領地の返上も強要しますが、反対が多く体制が一新するものの徳川将軍家がいなければ政治が回らないような状態は残ります。薩摩は徳川家を打破した新政権樹立の必要性を認識し、遂に倒幕に向かいます。戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見の戦いでは、新政府軍の形成が不利な状態だったものの、「錦の御旗」が翻ったことで徳川慶喜を始め多くの幕府軍が戦意を喪失しました。その後江戸城が無血開城するも、会津を中心に奥羽越列藩同盟の形成や、北海道函館で榎本武揚らによる蝦夷共和国政府の樹立宣言がありましたが、新政府軍によって平定されます。
戊辰戦争によって倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を樹立し、近代化に向けた制度作りが行われました。
近代化に向けた制度作りとして、ヨーロッパの制度を見聞し、日本は君主がいるため立憲君主制を採用することになります。立憲君主制とは、憲法によって君主の権力が制限されている政体です。君主の性質は国によって異なり、歴史の中であり方が決まっています。例えば、ヨーロッパの君主であれば、主から国を支配する権利と権力が与えられたものとしていました。天皇の場合、天皇と臣民による合議によって成立しているため、ヨーロッパの君主像とは異なっています。
ヨーロッパでは国を支配する権利と権力をもっていた君主が、革命や国民国家化を経て制限されました。
君主の権力の代表的なものは、
・法律を定める「立法権」
・法律違反を罰する「司法権」
・法律を執行する「行政権」
です。
国家統治に必要な権力を君主から切り離して、権力の源泉としたものが立憲君主制です。しかし君主は権力を制限されますが、影響力を行使することまでは制限されていません。
イギリスの憲政史家であるウォルター・バジョットは、自身の著書である『イギリス憲政論(The English Constitution)』(1867年初版)の中で君主の3つの権利について述べています。
・相談を受ける権利「被諮問権」(right to be consulted)
・激励する権利「激励権」(right to encourage)
・警告を発する権利「警告権」(right to warn)
君主は、3つの権利を効果的に行使することで国政に対し影響力を発揮させられます。そして3つの権利を行使することが立憲君主制を採用する上で必要なこととしています。君主が3つの権利を行使した場合、首相や閣僚は君主の発言を聞いて実行する義務はありません。しかし、聞かなかったことによる失敗の責任だけではなく、聞いたことによる失敗の責任の両方を負うことになります。
例えば、名君が3つの権利を行使した場合、首相や閣僚が発言を聞いて実行することも多いでしょう。もし暗君が行使した場合、発言は聞くものの実行しないという方法が可能です。
日本は近代以降、内奏を行います。内奏とは、天皇に内々に奏上する行為のことです。奏上は、天皇に対して意見などを申し上げることになります。つまり天皇は内奏の場で、内閣総理大臣や閣僚に対して3つの権利を行使できます。
内閣総理大臣や閣僚は内奏の内容を公言してはなりません。公言すれば天皇に責任を負わせることにつながるためです。立憲君主制の仕組み上、君主は権力の源泉であって直接行使する立場になく、権力を行使した責任を負いません。もし内奏で3つの権利を行使して国政に影響力を出そうとしても、その内容に問題があれば、内閣総理大臣や閣僚は実行しなければ良いため、内奏の内容をいたずらに公言すれば天皇に責任を負わせることになります。
新しい事例であれば令和3(2021)年6月24日に西村泰彦宮内庁長官の定例会見において次のような発言をしました。
国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されているご心配であると拝察しています
新型コロナウイルス感染症によって東京オリンピック・パラリンピック開催の是非が国民の間で二分されている中での発言となったため、政府に対する批判として政治利用されました。天皇を政治問題の渦中に放り込むことになるため、本来は慎むべき内容です。
明治の近代化によって大きく「鉄」と「金」と「紙」を整備しました。「鉄」は、「富国強兵」のことで近代化した軍を保有します。「金」は、「殖産興業」であり、鉄道網の整備や産業・工業振興、資本主義経済を推進しました。最後の「紙」とは、近代憲法典や行政機構の整備です。
近代化に向けて維新三傑の木戸孝允や大久保利通にとって近代憲法典の整備は最優先事項であり、悲願でもありました。奇しくも木戸や大久保が亡くなって以降、伊藤博文が制定に向けて活躍し、明治22(1889)年に大日本帝国憲法が公布されます。
大日本帝国憲法は簡文憲法とも呼ばれ、必要なことのみを条文化し、法律整備や運用で賄えることは記述しませんでした。また憲法とは、その国の歴史、伝統、文化の重要な部分を条文化したものです。伊藤博文や憲法制定に携わった井上毅などは、日本の歴史や天皇について古事記や日本書紀などを見直した上で日本の国柄にあった憲法典を整備しました。
大日本帝国憲法第1条では、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」とあります。
この条文は、日本の歴史を体現した条文であるといえ、日本国の統治者は歴史的に天皇であることを条文において確認していることになります。また帝国憲法が停止する状態に陥った際に天皇が直接統治することも意味します。
大日本帝国憲法第4条では、天皇が統治権の総攬(そうらん)者として権力の源泉とされました。権力の源泉の意味は、帝国憲法第4条にある「憲法の条規によりこれを行う」というもので、天皇が自ら権力を行使することを制限しています。
また天皇自ら権力を行使しないからこそ、天皇に政治的責任を負わせない条文があります。それが帝国憲法第3条の「天皇は神聖にして侵すべからず」です。そして憲法第6条から第16条までが天皇大権に関する事項が列挙されています。
大日本帝国憲法が施行されて以降、憲法停止状態が2度ありました。仮に憲法停止状態になったとしても機能するように帝国憲法は定められています。それは帝国憲法第1条に基づき、日本国の統治者として危機を乗り切るという方法です。
昭和11(1936)年2月26日に一部の軍人によるクーデター未遂事件、2.26事件が起きました。首相官邸や政府要人の私邸が襲撃され、多くの死傷者や重傷者が出てしまいます。当時の岡田内閣総理大臣は義理の弟が間違われて殺されたため、命は助かりました。昭和天皇は決起部隊に対して強く敵意をあらわにし、鎮圧に向けて動き出します。昭和天皇の強い意思表示によって、2.26事件は終局を迎えました。
昭和20(1945)年8月10日の御前会議において連合国側のポツダム宣言受諾を決断する時です。御前会議ではポツダム宣言の受諾の賛成と反対の結果が3対3の同数となり、本来であれば内閣総理大臣が決定しますが、当時の鈴木貫太郎内閣総理大臣は昭和天皇に判断を仰ぐことで決定しました。聖断と呼ばれますが、鈴木貫太郎内閣総理大臣が昭和天皇に判断を仰いだことによって、憲法停止状態となります。これは帝国憲法第1条に基づいて日本国の統治者としての判断といえます。
天皇機関説は、国家を法律上の法人とする国家法人説に基づいたときに政府や議会そして天皇なども法人の機関の1つということです。天皇機関説の主張は、枢密院議長の一木喜徳郎や東大憲法学者の美濃部達吉、京大憲法学者の佐々木惣一が主張しており、政府が運用する際の定説でした。しかし昭和9(1934)年に国体明徴運動が起こり、天皇機関説を指示していた美濃部達吉が排撃されたことで定説となっていた学説が葬られました。
美濃部達吉の弟子である宮澤俊義は、天皇機関説には3つの意味に使われていたことを著書の『天皇機関説事件』で述べています。
固有の意味の機関説 | 国家を法律上の法人とした場合、天皇は機関であるという解釈 |
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広義の機関説 | イギリス型立憲君主制であり、天皇の権能を狭くし、国務大臣の権能や帝国議会のコントロールを強くした解釈 |
俗流機関説 | 法人としての機関という意味ではなく、機械の機関という意味のものであり、天皇は権能をもたず君主としての権利ももたないロボット的な存在とした解釈 |
俗流機関説は、明治初期の天皇親政を望んでいた宮中官僚や、立憲主義的な解釈を排除して2.26事件を起こした陸軍皇道派が行おうとしていました。実際には、大正デモクラシーの流れの中で政党政治が定着すると「広義の機関説」に基づくイギリス型立憲君主制の運用に発展させています。しかし5.15事件以降、挙国一致内閣の成立によって、徐々に政党政治が衰退しました。
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日本には、天皇の他に上皇がいます。上皇とは、太上天皇のことであり、譲位によって皇位を後継者に譲った天皇の尊号です。本記事では、上皇とは何か、上皇と天皇の違いや、歴代太上天皇について解説していきます。
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日本の敗戦によって、GHQの日本進駐や戦犯とされた人たちへの裁判など、日本の歴史上、未曽有の危機が訪れました。初めてGHQの最高司令官であるダグラス・マッカーサーが昭和天皇に相対した時、昭和天皇は、戦争に関する一切の責任は自分にあること、日本にはただ一人の戦犯もいないことを伝えます。そして国民への衣食住についてマッカーサーに対してお願いしました。命乞いするわけではなく、逃げるわけでもなく、ただ毅然とした姿勢でマッカーサーに相対しました。
現代の天皇や未来へ向けた皇位継承を中心にご紹介します。
マッカーサーはGHQが求める「民主化」を推進するために、当時の幣原内閣に対して日本国憲法制定に向けて大きな影響力を行使します。そして大日本帝国憲法の改正によって、日本国憲法が誕生しました。その内容は帝国憲法と比べると異質なものでした。
GHQは、日本が立憲君主制の政治体制であった認識がなく、天皇を中心に政治を行い、戦争へと向かったものだと認識していました。GHQが考えていた天皇は、イギリス型の立憲君主制であり、憲法第1条に出てくる「象徴」というのは、「君臨すれども統治せず」を表すものとしています。
そして「象徴」としての地位は国民の総意に基づくものでなければならないとして、憲法第1条が作られました。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
現行憲法の「象徴」の解釈は2つあります。
言い換えれば立憲君主制の君主としての天皇の立場です。イギリスの立憲君主制を模範としており、国政に対する権能は持ちませんが、影響力はもつというものです。つまり、すでにご紹介した君主の3つの権利である「警告権」「被諮問権」「激励権」で影響力を行使します。
天皇機関説における俗流機関説としての天皇の立場です。天皇は国政に対する権能だけではなく君主の3つの権利も制限され、国民の傀儡とする状態となります。これは東大憲法学者である宮澤俊義の憲法第4条第1項に次のような解釈をしていることから、そのような想定がされています。
天皇を、なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に「めくら判」をおすだけのロボット的存在にすることを意味する。
出典:宮沢俊義『コンメンタール全訂日本国憲法』(芦部信喜補訂、日本評論社、一九七八)
イギリスの君主の場合、「君臨すれども統治せず」ですが、「ロボット的存在」の天皇の場合「君臨せず統治もせず」であり、すべて国民が決定したことにただ君主が従ういわば国民の傀儡天皇であることを意味しています。
実際に芦田内閣の時に、厳格な象徴天皇制を推進するために、内奏を廃止するという案がありました。しかし昭和天皇が抵抗したため、首相による内奏は残されています。
天皇が考える象徴のあり方は、たびたび「おことば」や姿勢の中で触れることができます。天皇は国民と苦楽をともにすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことを重視されています。
これは憲法第1条に規定されているから、そのように考えているのではなく、象徴としてのあり方が天皇の歴史に合致しており、国と国民のために尽くすことが天皇の務めと信じているためです。天皇の活動などは時代の変化によって変わることはあっても、天皇と国民の紐帯は過去から現代そして未来に向けても変わらないものと捉え、そのために務めを行っていくことを考えているでしょう。
もし天皇が国民としての総意に基づかなければ神武天皇以来の日本国は途切れてしまいます。制度上の問題はあるものの、天皇自身が国民との紐帯がもっとも大切なこととして務めを果たせれば、憲法でいかに制限されていようとも未来に続いていくといえます。
平成における天皇の大きな出来事を上げるとすれば、天皇の譲位が実現したことです。平成以前の譲位は、江戸時代後期の光格天皇だったため約200年以来の重要な出来事でした。
平成28(2016)年の8月8日に平成の天皇によるビデオメッセージ(玉音放送)がありました。内容は、伝統に則った象徴としてのお務めをどのように継承していくのかというものです。
ここでいう「象徴」は日本国憲法に基づくものというよりも歴史の中で培われてきた「象徴」という意味に捉えられます。これまでのように象徴の務めを果たしていくことが難しくなるのではないかという、あくまで国民に対して問いかけていました。また摂政の制度はあるものの、摂政を置いて象徴の務めを果たすことには明確に否定されています。
国論が二分せず、政府としても政争の具にしないように慎重に対応しました。結果、天皇の譲位は一代限りの特例法として国会で成立します。
天皇の歴史を見れば「譲位」とするところ、政府の正式名称は「生前退位」としています。「生前退位」の表現について、平成28(2016)年10月20日の地久節(皇后誕生日)において、美智子皇后(当時)が「驚きと共に痛みを覚えた」と述べており、表現に違和感があることを明らかにしています。
譲位は譲位する意思を示す表現であり、退位は譲位の意味と意思によらないものの2つの表現があります。また譲位に際して新帝践祚の後、元号は改められるところ、新天皇による元号の公表は「違法ではないが、適当ではない」という内閣法制局の判断や、「新天皇に公布させるために先送りした」となれば、改元手続きで天皇に配慮したことになるとして、改元の政令への署名は新帝にしない手続きとなりました。
また譲位した天皇は「太上天皇」ではなく略称の「上皇」となり、皇后は「皇太后」ではなく略称に「后」をつけた「上皇后」、そして秋篠宮は「皇太弟」ではなく一般名詞になる「皇嗣」としました。とくに「上皇后」の名称は、歴史上存在せず今回新たに作られたいわば「新儀」となります。
譲位の特例法を国会で制定した際に、次の附帯決議がなされています。
政府は女性宮家の創設など安定的な皇位継承のための諸課題について、皇族減少の事情も踏まえて検討を行い、速やかに国会に報告する
安倍内閣で譲位が実現し、その後菅内閣において有識者会議が設置されて、皇位の安定継承のために検討を行いました。
平成29(2017)年6月の「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」によって、いくつかの課題が示されました。これらの課題を専門的知識をもった有識者を集めて開催します。
初回の開催は、令和3(2021)3月23日に始まり、第13回の12月22日に終了し、報告書が出されます。菅内閣に会議が招集され、岸田内閣になってまとまりました。
有識者会議の報告において、皇位継承と皇族数の減少の基本的な考え方として2つあります。
今上陛下から秋篠宮皇嗣殿下、次世代の悠仁親王殿下という皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない。
すでに悠仁親王が次世代の天皇であることは皇位継承の順位から明らかになっています。そのため悠仁親王を蔑ろにして、具体的な議論をすれば皇位継承を不安定化する恐れがあります。つまり皇位継承の議論は、悠仁親王が次世代の天皇であることが前提です。その前提のもと、悠仁親王以外に皇族が誰もいないという事態を避けなければなりません。
皇位継承の問題と切り離して、皇族数の確保を図ることが喫緊の課題であり、その際、多様な世代の方が男女共に、悠仁親王殿下を支えるということが重要ではないか。
具体的方策として、次の1と2について今後具体的な制度の検討を進め、3は1と2で十分な皇族数を確保できない場合に検討するというものになります。
1. 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること
内親王や女王が皇族の身分を保持するには女性宮家の創設が必要となります。女性宮家とは、通常内親王や女王が婚姻した場合、臣籍降下しますが、婚姻後も皇族の身分を保持することです。
今後悠仁親王を支える皇族数が減少することから、女性宮家を創設して天皇や皇族の公的活動を継続する上で望ましいという意見から提案されています。
実際に女性宮家の先例があり、桂宮淑子(すみこ)内親王が唯一宮家の当主となっています。淑子内親王の先例は他の皇族と婚約するも薨去してしまったことで、未亡人となり、桂宮を継承しました。女性宮家の創設を先例どおりにするか、または一般男性との婚姻も含めるかによってによって、配偶者や子供に対してどのように扱うのかという問題があります。
先例に基づけば、皇族の血筋でないものは、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた称号として准三宮(じゅさんぐう)という名誉役職がありました。女性皇族は女性宮家の当主として皇族に残り、配偶者である一般男性やその子供に対しては、准三宮宣下を行って准皇族にする方法もあるでしょう。
2. 皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること
現行の皇室典範は、皇族の養子縁組が認められていないため、皇室典範を改正し養子縁組を可能にします。養子縁組によって皇統に属する男系男子を皇族にすることで、皇族数を増加させられます。
具体的には、昭和22(1947)年10月にGHQによって臣籍降下させられた旧11宮家の皇族男子は、現行の日本国憲法や皇室典範の下で皇位継承資格を有していた人たちでもあるため、その男系男子の子孫に養子となることが考えられます。旧皇族の男系男子の子孫が養子になるには、先例に基づいて親王宣下を行います。
また1番の女性宮家創設についても旧11宮家の皇族男子との婚姻の場合、准皇族として准三宮宣下ではなく親王宣下を行う方法もあるでしょう。
3. 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること
GHQによって臣籍降下させられた旧11宮家の皇族男子のうち子孫で男子がいる人が対象となるでしょう。婚姻や養子縁組としないため、直接的な方法で皇籍復帰させることになります。先例に基づく場合、親王宣下は必要でしょう。
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著者 |
倉山 満 |
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出版社 |
扶桑社 |
発売日 | 平成29(2017)年6月1日 |
ページ数 | 189ページ |
金額 | 836円(税込) |
ISBN | 9784594077211 |
著者 |
今谷 明 |
---|---|
出版社 |
文藝春秋 |
発売日 | 平成11(1999)年3月20日 |
ページ数 | 214ページ |
金額 | 748円(税込) |
ISBN | 9784166600328 |
著者 |
今谷 明 |
---|---|
出版社 | 新人物往来社 |
発売日 | 平成23(2011)年12月30日 |
ページ数 | 294ページ |
金額 | 2,640円(税込) |
ISBN | 9784404041227 |
著者 |
竹田 恒泰 |
---|---|
出版社 | 小学館 |
発売日 |
平成23(2011)年12月6日 |
ページ数 | 304ページ |
金額 | 748円(税込) |
ISBN | 9784094086690 |
著者 |
高森 明勅 |
---|---|
出版社 |
SBクリエイティブ |
発売日 | 平成30(2018)年10月6日 |
ページ数 | 192ページ |
金額 | 1,100円(税込) |
ISBN | 9784797397628 |
著者 |
神 一行 |
---|---|
出版社 |
KADOKAWA |
発売日 | 平成13(2001)年11月1日 |
ページ数 | 219ページ |
金額 | 502円(税込) |
ISBN | 9784043533053 |
著者 |
江崎 道朗 |
---|---|
出版社 | ビジネス社 |
発売日 | 平成31(2019)年4月1日 |
ページ数 | 303ページ |
金額 | 1,870円(税込) |
ISBN | 9784828420783 |
著者 |
高橋 紘 |
---|---|
出版社 |
文藝春秋 |
発売日 |
平成30(2018)年3月20日 |
ページ数 | 272ページ |
金額 | 968円(税込) |
ISBN | 9784166611638 |
著者 |
所 功 |
---|---|
出版社 |
PHP研究所 |
発売日 | 平成18(2006)年1月30日 |
ページ数 | 261ページ |
金額 | 814円(税込) |
ISBN | 9784569648057 |
著者 |
笠原 英彦 |
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出版社 |
中央公論新社 |
発売日 |
令和3(2021)年3月23日 |
ページ数 | 384ページ |
金額 | 1,078円(税込) |
ISBN | 9784121916174 |
著者 |
高森 明勅 |
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出版社 |
幻冬舎 |
発売日 | 平成23(2011)年5月30日 |
ページ数 | 449ページ |
金額 | 1,100円(税込) |
ISBN | 9784344982178 |
著者 |
竹田 恒泰 |
---|---|
出版社 | PHP研究所 |
発売日 | 令和2(2020)年8月11日 |
ページ数 | 668ページ |
金額 | 1,980円(税込) |
ISBN | 9784569843605 |
著者 |
山本 博文 |
---|---|
出版社 |
光文社 |
発売日 | 平成29(2017)年4月17日 |
ページ数 | 329ページ |
金額 | 946円(税込) |
ISBN | 9784334039806 |
著者 |
井上 辰雄 |
---|---|
出版社 | 塙書房 |
発売日 | 平成23(2011)年2月25日 |
ページ数 | 313ページ |
金額 | 8,250円(税込) |
ISBN | 9784827312409 |
著者 |
倉山 満 |
---|---|
出版社 |
祥伝社 |
発売日 | 平成30(2018)年8月10日 |
ページ数 | 360ページ |
金額 | 1,012円(税込) |
ISBN | 9784396115432 |
著者 |
美川 圭 |
---|---|
出版社 |
中央公論新社 |
発売日 |
令和3(2021)年4月25日 |
ページ数 | 320ページ |
金額 | 990円(税込) |
ISBN | 9784121918673 |
著者 |
本郷 和人 |
---|---|
出版社 |
中央公論新社 |
発売日 | 平成30(2018)年8月10日 |
ページ数 | 304ページ |
金額 | 968円(税込) |
ISBN | 9784121506306 |
著者 |
大津 透 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成29(2017)年12月11日 |
ページ数 | 392ページ |
金額 | 1,375円(税込) |
ISBN | 9784062924818 |
著者 |
吉川 真司 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成30(2018)年1月11日 |
ページ数 | 368ページ |
金額 | 1,298円(税込) |
ISBN | 9784062924825 |
著者 |
佐々木 恵介 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成30(2018)年2月9日 |
ページ数 | 368ページ |
金額 | 1,298円(税込) |
ISBN | 9784062924832 |
著者 |
河内 祥輔 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成30(2018)年3月9日 |
ページ数 | 384ページ |
金額 | 1,331円(税込) |
ISBN | 9784062924849 |
著者 |
藤井 讓治 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成30(2018)年4月10日 |
ページ数 | 352ページ |
金額 | 1,276円(税込) |
ISBN | 9784062924856 |
著者 |
藤田 覚 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成30(2018)年5月10日 |
ページ数 | 368ページ |
金額 | 1,298円(税込) |
ISBN | 9784065116401 |
著者 |
西川 誠 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成30(2018)年6月11日 |
ページ数 | 392ページ |
金額 | 1,353円(税込) |
ISBN | 9784065118511 |
著者 |
加藤 陽子 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成30(2018)年7月10日 |
ページ数 | 504ページ |
金額 | 1,639円(税込) |
ISBN | 9784065122907 |
著者 |
小倉 慈司 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成30(2018)年8月10日 |
ページ数 | 400ページ |
金額 | 1,386円(税込) |
ISBN | 9784065126714 |
著者 |
渡部 泰明 |
---|---|
出版社 |
講談社 |
発売日 |
平成30(2018)年9月10日 |
ページ数 | 392ページ |
金額 | 1,430円(税込) |
ISBN | 9784065130247 |
著者 |
米田 雄介(監修) |
---|---|
出版社 | 河出書房新社 |
発売日 | 令和元(2019)年6月21日 |
ページ数 | 1584ページ |
金額 | 35,200円(税込) |
ISBN | 9784309227658 |
著者 |
米田 雄介(監修) |
---|---|
出版社 | 河出書房新社 |
発売日 | 平成30(2018)年9月27日 |
ページ数 | 330ページ |
金額 | 5,720円(税込) |
ISBN | 9784309227474 |
著者 | 皇室事典編集委員会 |
---|---|
出版社 | KADOKAWA |
発売日 | 令和元(2019)年11月30日 |
ページ数 | 760ページ |
金額 | 8,580円(税込) |
ISBN | 9784044004903 |
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海外の商社などと取り引きする場合、時折話題に出るのが日本の歴史や伝統、文化です。その時に天皇のことを教養として知っておくと、話題に困らないだけではなく、冒頭に紹介した私の友人の事例のような「日本のことを知らない」という事態を回避できるでしょう。
天皇には独特な名称や呼称などがあることを始めに紹介しました。次に天皇の皇位継承として、まずは「先例」を重視し、続いて「男系」であること、最後に「直系」の順番が大切であることを紹介しています。そして「天皇小史」として「神話」「伝承」「歴史」の順に、近代以前までの天皇で特筆すべき事項を取り出して紹介しました。そして近代で近代化によってどのように天皇の制度が変わり、また現代の「象徴天皇」や未来に向けた皇位継承問題を取り上げました。
天皇について教養として知っておきたいと思えば、本記事を参考にすると良いでしょう。またさらに教養を深めてみたい人に向けて、それぞれのテーマごとに天皇本をご紹介していますので、確認してみてください。
令和4(2022)年12月4日更新
令和4(2022)年11月3日公開