日本には、天皇の他に上皇がいます。上皇とは、太上天皇のことであり、譲位によって皇位を後継者に譲った天皇の尊号です。多くの上皇は天皇を経験しているものの、天皇にならずに上皇になった人もいます。
本記事では、上皇とは何か、上皇と天皇の違いや、歴代太上天皇について解説します。
勝川春章画『錦百人一首あつま織』、跡見学園女子大学図書館所蔵
中学や高校の日本史において、上皇という言葉が出てきます。また平成から令和に変わった際に、平成の天皇が譲位し上皇になったため、現代人においても馴染みのある名称になったといえるでしょう。
上皇とは、天皇が譲位によって皇位を後継者に譲り、その後譲位元の天皇に贈られる尊号です。
上皇は略称で、正式には太上天皇といい、由来は、中国の太上皇帝からきています。太上の意味は、無上、至上の意味で、古来より「だいじょうてんのう」あるいは「だじょうてんのう」と読みます。また続日本紀に、「おおきすめらみこと」という読み方が見られます。
太上天皇の称は、養老儀制令に、「譲位の帝に称するところ」という記載があります。
同じく中学や高校の日本史において法皇という言葉が出てきます。法皇は、上皇が、出家した場合のことを法皇といい、正式には太上法皇といいます。法皇の称号は、平安時代の宇多天皇が初見であり、他には白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇などが法皇です。江戸時代の霊元法皇が最後の法皇となります。
始まりは、持統天皇が文武天皇に皇位を譲位した時からになります。愚管抄にも「太上天皇のはじまりはこの持統の女帝の御時なり」という記載があります。
持統天皇から始まる上皇は、江戸時代後期の仁孝天皇に譲位した光格天皇まで、59人の上皇が存在していました。
持統天皇の上皇の前に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という尊号が贈られた天皇がいます。
中大兄皇子と中臣鎌足らによって蘇我入鹿を打倒した乙巳の変がありました。その時の天皇が皇極天皇で、乙巳の変の後に孝徳天皇に位を譲りました。
位を譲った際に孝徳天皇より、皇祖母尊の尊号が贈られました。尊号の名称は太上天皇と異なるものの、意味するところは同じようなもので、それを初見と考えることもできます。しかし、名称の違いから、あくまで持統天皇が上皇の初見としています。
嵯峨天皇以前の上皇は、律令の儀制令に定められたとおり、譲位した天皇はそのまま太上天皇です。平城天皇が嵯峨天皇に譲位したときに、嵯峨天皇の兄でもある平城上皇との間で、どちらが実権を握るかの争いが起こりました。
平城上皇は、奈良に拠点を置き、二所朝廷といわれる対立となり、のちの南北朝時代のような争いになりかねない事態となります。しかし嵯峨天皇は、坂上田村麻呂らによって機先を制し、その争いを一早く平定しました。
嵯峨天皇は、平城上皇との経験から、弟の淳和天皇に譲位したときに、太上天皇の尊号を固辞します。しかし、譲位した先帝の身分が定まらず、太上天皇の尊号が贈られなかった先例もあるため、方法を考えました。
その方法とは、新天皇である淳和天皇が、先帝を太上天皇の尊号を与えると天皇の名で命じることでした。つまり、尊号を与える側と受ける側として、天皇と上皇の上下関係をはっきりさせることにしました。
淳和天皇が嵯峨天皇に太上天皇の尊号を贈ったことが先例となり、以後の尊号に際しての儀式があります。
始めに、尊号を上る儀があります。尊号の証書を作成し、尊号を上るべき旨を宣するものとなります。次に、尊号辞退の儀があります。尊号を上る儀に対して、太上天皇が上書して尊号を辞退するものです。尊号辞退は、辞退が再三に及ぶことになるものの、天皇が聴許なき旨を勅答します。
太上天皇の尊号を辞退する書面を御辞書または御辞表といい、これに対する天皇の勅答を御報書といいます。
上皇になれば、誰でもすぐに院政を行えるわけではありません。院政を行える上皇は、皇室の家長である「治天の君」である必要があります。
上皇が政治に関与する事例としては、文武天皇時代の持統上皇が初見です。また淳仁天皇の時は、孝謙上皇の詔が示すように天皇よりも上皇が政治を行うようになります。
国家の大事及び賞罰の二柄は自ら掌握し、祭祀及び小事のみ天皇の親裁に委ねる
その後嵯峨天皇によって、上皇ではなく天皇が皇室の家長という位置づけになりました。
摂関政治の全盛を迎えた平安時代中期から後期にかけて、後三条天皇が皇位を白河天皇に譲りました。後三条上皇自身も政務を親裁する意図があったと伝えられているものの、その後崩御してしまいます。
そして白河天皇が堀河天皇に譲位し、「院政」の時代になりました。白河上皇が「治天の君」として政務を親裁することが恒常化するためです。
院政で有名なのは、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の4上皇です。しかし、後鳥羽上皇を中心とした朝廷が承久の乱に敗北したことで、大きな制約を受けるに至りました。
不登極帝とは、天皇になっていない上皇です。
承久3(1221)年に起きた承久の乱の後に、鎌倉幕府の北条義時らによって後鳥羽上皇の異母兄の守貞親王を上皇として院政をさせることにします。守貞親王は天皇にならずに上皇となった不登極帝の初見です。守貞親王は後高倉上皇になりました。
不登極帝の例として尊号一件という事件が江戸時代にありました。江戸時代後期に後桃園天皇が崩御した際に、世継ぎがいなかったことで、閑院宮家から典仁親王の子であった光格天皇が養子となり、即位しました。
光格天皇は、天皇に即位したことで父親よりも位が上となりました。さらに禁中並公家諸法度において親王の序列が摂関家よりも下であるため、江戸幕府以前の先例にならい典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとします。しかし時の老中松平定信は、徳川家康が定めた禁中並公家諸法度は、江戸幕府にとっての祖法であるとして反対され、典仁親王に上皇の尊号が贈れなくなりました。
しかし時の将軍である徳川家斉も、父である一橋治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていました。老中松平定信の決定は、一橋治済に大御所の尊号を贈ることもできなくなってしまい、一橋治済と徳川家斉父子の怒りを買って、松平定信は失脚します。
その後明治17(1884)年、光格天皇が明治天皇の高祖父にあたることから、典仁親王に慶光天皇の諡号と太上天皇の尊号が贈られることになりました。
かっこ書きされている太上天皇は、天皇にならずに太上天皇の尊号を贈られた人です。
太上天皇 | 太上天皇期間 | 尊号宣下年月日 | 在位の天皇 |
---|---|---|---|
持統 |
持統11年8月1日(譲位) |
文武 | |
元明 |
和銅8年9月2日(譲位) |
元正 | |
元正 |
養老8年2月4日(譲位) |
聖武 | |
聖武 |
天平感宝元年7月2日(譲位) |
孝謙 | |
孝謙 |
天平宝字2年8月1日(譲位) |
淳仁 | |
光仁 |
天応元年4月3日(譲位) |
桓武 | |
平城 |
大同4年4月1日(譲位) |
嵯峨、淳和 | |
嵯峨 |
弘仁14年4月16日(譲位) |
弘仁14年4月23日 | 淳和、仁明 |
淳和 |
天長10年2月28日(譲位) |
天長10年3月2日 | 仁明 |
清和 |
貞観18年11月29日(譲位) |
貞観18年12月8日 | 陽成 |
陽成 |
元慶8年2月4日(譲位) |
元慶8年2月4日 | 光孝、宇多、醍醐、朱雀、村上 |
宇多 |
寛平9年7月3日(譲位) |
寛平9年7月10日 | 醍醐、朱雀 |
醍醐 |
延長8年9月22日(譲位) |
朱雀 | |
朱雀 |
天慶9年4月20日(譲位) |
天暦9年4月26日 | 村上 |
冷泉 |
安和2年8月13日(譲位) |
安和2年8月25日 | 円融、花山、一条、三条 |
円融 |
永観2年8月27日(譲位) |
永観2年9月9日 | 花山、一条 |
花山 |
寛和2年6月23日(譲位) |
寛和2年6月28日 | 一条 |
一条 |
寛弘8年6月13日(譲位) |
三条 | |
三条 |
長和5年1月29日(譲位) |
長和5年2月13日 | 後一条 |
後朱雀 |
寛徳2年1月16日(譲位) |
寛徳2年1月16日 | 後冷泉 |
白河 |
応徳5年11月26日(譲位) |
応徳3年12月2日 | 堀川、鳥羽、崇徳 |
鳥羽 |
保安4年1月28日(譲位) |
保安4年2月2日 | 崇徳、近衛、後白河 |
崇徳 |
永治元年12月7日(譲位) |
永治元年12月9日 | 近衛、後白河、二条 |
後白河 |
保元3年8月11日(譲位) |
保元3年8月17日 | 二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽 |
二条 |
永万元年6月25日(譲位) |
永万元年6月29日 | 六条 |
六条 |
仁安3年2月19日(譲位) |
仁安3年2月28日 | 高倉 |
高倉 |
治承4年2月21日(譲位) |
治承4年2月27日 | 安徳 |
後鳥羽 |
建久9年1月11日(譲位) |
建久9年1月20日 | 土御門、順徳、仲恭、後堀川、四条 |
土御門 |
承元4年11月25日(譲位) |
承元4年12月5日 | 順徳、仲恭、後堀川 |
順徳 |
承久3年4月20日(譲位) |
承久3年4月23日 | 仲恭、後堀川、四条、後嵯峨 |
(後高倉) |
貞応2年5月14日(崩御) | 承久3年8月16日 | 後堀川 |
後堀川 |
貞永元年10月4日(譲位) |
貞永元年10月7日 | 四条 |
後嵯峨 |
寛元4年1月29日(譲位) |
寛元4年2月13日 | 後深草、亀山 |
後深草 |
正元元年11月26日(譲位) |
正元元年12月2日 | 亀山、後宇多、伏見、後伏見、後二条 |
亀山 |
文永11年1月26日(譲位) |
文永11年2月2日 | 後宇多、伏見、後伏見、後二条 |
後宇多 |
弘安10年10月21日(譲位) |
弘安10年11月15日 | 伏見、後伏見、後二条、花園、後醍醐 |
伏見 |
永仁6年7月22日(譲位) |
永仁6年8月3日 | 後伏見、後二条、花園 |
後伏見 |
正安8年1月21日(譲位) |
正安3年1月29日 | 後二条、花園、後醍醐 |
花園 |
文保2年2月26日(譲位) |
文保2年3月10日 | 後醍醐、後村上 |
後醍醐 |
延元(暦応2)4年8月15日(譲位) |
後村上 | |
長慶 |
弘和3(永徳3)年(譲位) |
後亀山、後小松 | |
後亀山 |
元中9(明徳3)年閏10月5日(譲位) |
明徳5年2月23日 | 後小松、称光 |
光厳 |
元弘3(正慶2)年5月25日(譲位) |
元弘3(正慶2)年12月10日 | 光明、崇光、後光厳 |
光明 |
正平3(貞和4)年10月27日(譲位) |
正平3(貞和4)年11月25日 | 崇光、後光厳、後円融 |
崇光 |
正平6(観応2)年11月7日(譲位) |
正平6(観応2)年12月28日 | 後光厳、後円融、後小松 |
後光厳 |
建徳2(応安4)年3月23日(譲位) |
建徳2(応安4)年閏3月6日 | 後円融 |
後円融 |
弘和2(永徳2)年4月11日(譲位) |
弘和2(永徳2)年4月25日 | 後小松 |
後小松 |
応永19年8月29日(譲位) |
応永19年9月5日 | 称光、後花園 |
(後崇光) |
康正2年8月29日(崩御) | 文安4年11月27日 | 後花園 |
後花園 |
寛正5年7月19日(譲位) |
寛正5年8月9日 | 後土御門 |
正親町 |
天正14年11月7日(譲位) |
天正14年11月 | 後陽成 |
(陽光) | 天正14年7月24日(崩御) | (薨去後追贈) | |
後陽成 |
慶長16年3月27日(譲位) |
慶長16年4月7日 | 後水尾 |
後水尾 |
寛永6年11月8日(譲位) |
寛永6年11月8日 | 明正、後光明、後西、霊元 |
明正 |
寛永20年10月3日(譲位) |
寛永20年10月12日 | 後光明、後西、霊元、東山 |
後西 |
寛文3年1月26日(譲位) |
寛文3年2月3日 | 霊元 |
霊元 |
貞享4年3月21日(譲位) |
貞享4年3月25日 | 東山、中御門 |
東山 |
宝永6年6月21日(譲位) |
宝永6年6月24日 | 中御門 |
中御門 |
享保20年3月21日(譲位) |
享保20年3月23日 | 桜町 |
桜町 |
延享4年5月2日(譲位) |
延享4年5月7日 | 桃園 |
後桜町 |
明和7年11月24日(譲位) |
明和7年11月25日 | 後桃園、光格 |
光格 |
文化14年3月22日(譲位) |
文化14年3月24日 | 仁孝 |
(慶光) |
寛政6年7月6日(崩御) | 明治17年3月19日(追贈) | |
太上天皇 | 平成31年4月30日(譲位) | 令和元年5月1日 | 今上 |
院 | 院政期間 | 院政年数 | 在位の天皇 |
---|---|---|---|
白河 |
応徳3年11月26日(譲位) |
42年9ヶ月 | 堀川、鳥羽、崇徳 |
鳥羽 |
大治4年7月7日(白河院崩御) |
27年1ヶ月 | 崇徳、近衛、後白河 |
後白河 |
保元3年8月11日(譲位) |
21年4ヶ月 | 二条、六条、高倉 |
高倉 |
治承4年2月21日(譲位) |
1年 | 安徳 |
後白河 |
治承5年1月17日(院政再開) |
11年3ヶ月 | 安徳、後鳥羽 |
後鳥羽 |
建久9年1月11日(譲位) |
23年7ヶ月 | 土御門、順徳、仲恭 |
後高倉 |
承久3年8月16日(尊号宣下) |
1年10ヶ月 | 後堀川 |
後堀川 |
貞永元年10月4日(譲位) |
1年11ヶ月 | 四条 |
後嵯峨 |
寛元4年1月29日(譲位) |
26年2ヶ月 | 後深草、亀山 |
亀山 |
文永11年1月26日(譲位) |
13年10ヶ月 | 後宇多 |
後深草 |
弘安10年10月21日(伏見天皇受禅) |
2年6ヶ月 | 伏見 |
伏見 |
永任6年7月22日(後伏見天皇受禅) |
2年8ヶ月 | 後伏見 |
後宇多 |
正安3年1月21日(後二条天皇受禅) |
7年8ヶ月 | 後二条 |
伏見 |
徳治3年8月26日(花園天皇践祚) |
5年3ヶ月 | 花園 |
後伏見 |
正和2年10月14日(伏見院政務委譲) |
4年5ヶ月 | 花園 |
後宇多 |
文保2年2月26日(後醍醐天皇受禅) |
3年11ヶ月 | 後醍醐 |
後伏見 |
元弘元年9月20日(光厳天皇践祚) |
1年10ヶ月 | 光厳 |
光厳 |
建武3年8月15日(光明天皇践祚) |
15年4ヶ月 | 光明、崇光 |
後光厳 |
応安4年3月23日(譲位) |
2年12ヶ月 | 後円融 |
後小松 |
応永19年8月29日(譲位) |
21年3ヶ月 | 称光、後花園 |
後花園 |
寛正5年7月19日(譲位) |
6年6ヶ月 | 後土御門 |
後陽成 |
慶長16年3月27日(譲位) |
6年6ヶ月 | 後水尾 |
後水尾 |
寛永6年11月8日(譲位) |
19~20年 | 明正、後光明 |
後水尾 |
寛文3年1月26日(霊元天皇受禅) |
7年 | 霊元 |
霊元 |
貞享4年3月21日(譲位) |
6年9ヶ月 | 東山 |
東山 |
宝永6年6月21日(譲位) |
7ヶ月 | 中御門 |
霊元 |
宝永6年12月17日(東山院崩御) |
8年 | 中御門 |
中御門 |
享保20年3月21日(譲位) |
2年2ヶ月 | 桜町 |
桜町 |
延享4年5月2日(譲位) |
3年 | 桃園 |
光格 |
文化14年3月22日(譲位) |
23年9ヶ月 | 仁孝 |
太上天皇の尊号を贈られた者は、北朝を含めて63人、院政をした太上天皇は30人です。院政をする上皇は、天皇よりも上皇が皇室の家長になっており、強い影響力を皇室に発揮していることで起こります。そして皇室の家長のことを「治天の君」といいます。
嵯峨天皇の先例は、皇室の家長を天皇としているため、院政による弊害がありませんでした。令和に誕生した上皇は、嵯峨天皇の先例に従っているといえ、その先例に従えば、上皇による弊害は少ないといえるでしょう。
著者 |
倉山 満 |
---|---|
出版社 |
祥伝社 |
発売日 | 平成30(2018)年8月10日 |
ページ数 | 360ページ |
金額 | 1,012円(税込) |
ISBN | 9784396115432 |
著者 |
美川 圭 |
---|---|
出版社 |
中央公論新社 |
発売日 |
令和3(2021)年4月25日 |
ページ数 | 320ページ |
金額 | 990円(税込) |
ISBN | 9784121918673 |
著者 |
本郷 和人 |
---|---|
出版社 |
中央公論新社 |
発売日 | 平成30(2018)年8月10日 |
ページ数 | 304ページ |
金額 | 968円(税込) |
ISBN | 9784121506306 |
令和4(2022)年11月3日公開