女性天皇は中継ぎだけの存在だったのか?先例と8人の女帝から見る役割を解説

推古女帝

土佐光芳画『推古天皇像』、叡福寺所蔵

 

天皇には、8方10代の女性天皇がいました。女性天皇の役割は、「中継ぎ」、つまり次の天皇を繋ぐための存在といわれています。本記事では、女性天皇が本当に「中継ぎ」だけの存在だったのか、先例と8人の女帝から見る役割について解説します。

 


女性天皇とは

神功皇后

月岡芳年画『大日本史略図会 第十五代神功皇后』、桜井義之文庫

 

現在の皇室典範第1条では、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とあり、第1条の内容は明治時代に制定された皇室典範から変わらず引き継がれています。しかし、日本の歴史には、8方10代の女性天皇の先例があったため、明治前までは「男系子孫」ではあったものの、「男系男子」に絞られることになりました。

 

女性天皇の先例とは何か

日本の歴史上、次の8方10代の女性天皇がいました。

 

推古天皇、皇極天皇、斉明天皇(皇極天皇の重祚)、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)、明正天皇、後桜町天皇

 

重祚とは、「ちょうそ」と読み、再即位のことです。

 

古代日本では、「隋」や「唐」を手本としてきました。中華皇帝において、例外はあるものの原則として、女帝を認めない国です。しかし日本では、8方10代の女性天皇がいたのは、単なる例外とはいえません。

 

女性天皇の前身は神功皇后

現在では、推古天皇が女性天皇の初例とされています。しかし大正時代より前であれば、神功皇后が女性天皇の初例でした。

 

推古天皇の前の時代では、神功皇后や飯豊青皇女といった女性皇族が、「大王の代行者」として「臨朝秉政」(りんちょうしょうせい)を行う先例がありました。

 

臨朝秉政とは、大王の崩御によって、大王の葬送儀礼を始め、次の天皇の選定などを行うために、臨時に政務をとることです。つまり崩御した天皇から次の天皇まで、天皇がいない状態となるため、臨時に政務をとっていたのが、神功皇后や飯豊青皇女でした。これだけを見ると、「中継ぎ」としての役割を果たしていると見ることもできます。

 

神功皇后が女性天皇だった別の見方は、三韓征伐の時に応神天皇を身籠っていたことから、摂政の立場にありました。また、飯豊青皇女は近親(甥か弟)が即位するまでの摂位の立場にあったとして、その役割を果たしたともいえます。これを見ると、「摂政」としての役割を果たしていると見ることが可能です。

 

中継ぎ」または「摂政」のどちらにせよ、女性天皇に近い役割を果たしていたことから、文献によっては「天皇」とみなされたのかもしれません。しかし実際に、即位した確証がないため天皇から外されています。

 

女性天皇は、「大王の代行者」として「臨朝秉政」を行った先例を元にして、時の権力者である蘇我馬子が、敏達天皇の皇后である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を天皇にする新儀を行いました。

 

女性天皇の役割と条件

8方10代の女性天皇は、独自の役割そして条件がありました。

 

女性天皇の役割

女性天皇の役割は、次の天皇の「中継ぎ」としての天皇です。つまり次の天皇が成人するまでの間は天皇になり、次の天皇に譲位ができれば譲位しました。また併せて次の天皇に行う帝王教育も担っていました。

 

女性天皇になる条件

女性天皇になる条件は、未亡人か未婚である必要があります。そして女性天皇になった後は、生涯独身でいなければなりません。これが先例です。

 

未亡人が女性天皇になれるのは、女性天皇の前身の「大王の代行者」の意味合いがあるでしょう。また、神功皇后や飯豊青皇女を仮に女性天皇とする場合、前者は未亡人であり、後者は未婚で、どちらもその後結婚はしませんでした。

 

額田部皇女は女性天皇の新儀であるものの、それより以前の「大王の代行者」の先例に基づいているといえるでしょう。

 


8方10代の女帝は中継ぎだけの存在だったのか

持統女帝

勝川春章画『錦百人一首あつま織』、跡見学園女子大学図書館所蔵

 

実際に女性天皇は「中継ぎ」だけとは限りません。女性天皇の事績について紹介します。

 

推古女帝

推古女帝は、欽明天皇と蘇我稲目の娘である蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)との間に生まれ、額田部氏に養育されたため、額田部皇女といわれます。異母兄であり夫でもある敏達天皇、同母兄に用明天皇、異母弟に崇峻天皇がいました。

 

欽明天皇32(571)年に、異母兄である渟中倉太珠敷皇子(ぬなくらのふとたましきのみこ、後の敏達天皇)の妃となり、5年後に皇后である広姫の薨去によって皇后になります。敏達天皇が崩御すると、用明天皇が次の天皇になりました。用明天皇の代において、異母弟である穴穂部皇子(あなほべのみこ)が額田部皇太后に皇位を要求し、その後も皇位を狙う行動をしました。

 

用明2(587)年に、穴穂部皇子を推す物部守屋が、泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子によって攻め滅ぼされたため、次の天皇が泊瀬部皇子である崇峻天皇になりました。しかし崇峻天皇が、蘇我馬子と対立したことで、暗殺されてしまいます。その後の難局を切り抜けるために、額田部皇太后が次の天皇として擁立され即位することになりました。

 

推古女帝は、実子である竹田皇子の擁立を願ったものの、間もなくして薨去したことで、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として迎えて、摂政に任命します。聖徳太子は、対外的には遣隋使を送って、隋と対等な関係の外交努力を行い、対内的には皇室中心の政治体制を構築するため、冠位十二階や十七条憲法を制定、また「天皇記」や「国記」の編纂も行います。

 

推古天皇28(620)年に聖徳太子と蘇我馬子は『天皇記』と『国記』を献上するものの、2年後には聖徳太子が薨去し、さらに4年後になると蘇我馬子が薨去しました。

 

推古女帝の後の皇位継承者を決めるため、田村皇子と山背大兄皇子が後継候補になります。しかし、蘇我馬子の子である蝦夷は、田村皇子を後継者に指名していたため、次の天皇は田村皇子である舒明天皇が擁立され即位しました。

 

皇極・斉明女帝

皇極・斉明女帝は、舒明天皇の皇后だった宝皇女です。舒明天皇の崩御後、後継候補として中大兄皇子や、異母兄の古人大兄皇子、山背大兄皇子などがいました。しかし皇后であった宝皇女が次の天皇として擁立され即位します。

 

内政外交は、大臣の蘇我蝦夷が権勢を振るい、子の入鹿は父親以上に専権を振るっており、皇室の権威に対抗する勢いがある状況でした。また蘇我入鹿は、山背大兄皇子を攻め滅ぼし、後継候補の有力者として、甥の古人大兄皇子を皇太子に立てようとします。そこへ中大兄皇子や、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂らによって蘇我本宗家を打倒する乙巳の変が起こりました。

 

宮中にて蘇我入鹿が暗殺されたことで、皇極女帝は、譲位の新儀を行います。宮中で暗殺事件を起こした中大兄皇子は、すぐに天皇にならず、母方の叔父にあたる軽皇子が孝徳天皇として即位しました。孝徳天皇は譲位した皇極女帝に皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号を与えます。

 

その後、蘇我氏系の古人大兄皇子が討ち滅ぼされ、大化の改新の第1段階が完了しました。大化改新は、中華の法制度を継受する形で、中央集権的な国家形態とするために、新しい元号に「大化」の元号を制定させます。

 

孝徳女帝が病没すると、皇太子の地位にあった中大兄皇子が天皇になるわけではなく、高齢の皇極皇祖母尊(すめみおやのみこと)が斉明女帝として再即位します。重祚の初例です。

 

朝鮮半島では、百済が、唐と新羅に挟撃され、日本に救援を要請します。日本にとって百済は友好国であり、超大国である唐に対する緩衝地帯でもあります。そこで、斉明女帝自ら、中大兄皇子や大海人皇子とともに、大軍を率いて九州へ出陣します。しかし途中で斉明女帝が急逝することになり、中大兄皇子が称制として、7年間皇太子のまま天皇に代わって大政を担いました。その後白村江の戦いに敗北し、百済という緩衝地帯を失い、国内の防衛体制を固めることになりました。

 

持統女帝

持統女帝は、中大兄皇子(天智天皇)と蘇我倉山田石川麻呂の娘の蘇我遠智娘(おちのいらつめ)との間に誕生し、鸕野讃良(うののさらら)皇女といわれました。鸕野讃良皇女は、天智天皇の弟である大海人皇子の妃となって、草壁皇子が誕生します。古代史上大規模な皇位継承者争いである壬申の乱が起こり、大海人皇子は、天智天皇の子である大友皇子と争った結果、大海人皇子が勝利を収めて、天武天皇になりました。

 

天武天皇2(673)年に天武天皇が即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立てられます。在位中は天皇を助け、政務について助言をしています。天武天皇10(681)年に子である草壁皇子を皇太子に立てました。

 

天武天皇15(685)年になると天武天皇が病気になり、皇后と皇太子に政務を委ねます。天武天皇が病没すると、皇太后として自ら大政を行う称制の形をとりました。しかし後継候補だった皇太子草壁皇子が、子である軽皇子(かるのみこ)を残して病没してしまいます。後継候補がいなくなったものの、直系継承を貫徹させるため軽皇子を後継候補と考えて鸕野讃良皇太后が中継ぎとして即位することになりました。

 

軽皇子が成長したことで持統女帝は譲位し、軽皇子が文武天皇として即位します。譲位した持統女帝は、初の「太上天皇」の尊号が贈られることになります。

 

元明女帝

元明女帝は、中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂の娘との間に誕生し、阿閉(あへ)皇女といわれました。

 

天武天皇の皇統は、皇后の持統女帝、孫の文武天皇へと直系継承されました。しかし文武天皇は、在位11年目に崩御してしまいます。文武天皇から直系継承できる皇子が、文武天皇と藤原不比等の娘である藤原宮子との間に誕生した首(おびと)皇子1人だけで、年齢も若かったため、阿閉皇女が中継ぎとして即位しました。皇后を経ずに即位した初例です。

 

元明女帝の治世では、藤原京から平城京への遷都や、先帝から編纂が続いていた『古事記』の完成、和同開珎の鋳造などを行っています。

 

元正女帝

元正女帝は、天武天皇の皇子である草壁皇子と元明女帝との間に誕生し、日高内親王といわれました。

 

元明女帝が首皇子の中継ぎとして在位していたものの、首皇子に天皇の治世を補佐する期間を一定程度設ける必要があることから、元明女帝が譲位し、、日高内親王が中継ぎとして即位しました。女帝から女帝への皇位継承の唯一の事例であり、独身で即位した初例です。

 

元正女帝の治世では、養老元(717)年から藤原不比等が中心となって養老律令の編纂を始めました。首皇子は、24歳になると元正女帝の譲位によって、即位します。元正女帝は、太上天皇として後見人として聖武天皇を補佐しました。

 

孝謙・称徳女帝

孝謙女帝は、聖武天皇と藤原不比等の娘である光明皇后との間に誕生し、安倍氏に養育されたため阿倍内親王といわれました。

 

聖武天皇と光明皇后との間に、基(もとい)王が誕生するものの、早逝してしまい安倍内親王のみでした。聖武天皇と県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)との間にも安積親王が生まれます。しかし後ろ盾がなかったため即位が難しく、天平17(744)年には安積親王が薨去します。天平10(738)年には、安倍内親王が立太子することになりました。

 

天平勝宝元(749)年に聖武天皇の譲位によって安倍内親王が即位します。孝謙女帝は、これまでの先例にないことばかりで、唯一の女性皇太子の事例であり、中継ぎでない女帝、人臣皇后から誕生した女帝です。また即位しても次の皇位継承の見通しが立っていない危機的状況でもありました。

 

天平勝宝8(756)年5月2日に聖武上皇が崩御すると、天武天皇の皇子である新田部親王の子、道祖(ふなど)王を皇太子にする遺詔を残しました。しかし孝謙天皇や、光明皇太后の甥である藤原仲麻呂が権勢をほしいままにしていたことから、道祖王は廃太子となって代わりに大炊(おおい)王が新たな皇太子に立てられます。そして孝謙女帝は、天平宝字2(758)年に皇太子大炊王に譲位します。

 

淳仁天皇は、光明皇太后の信任が篤い甥の藤原仲麻呂の策謀と言われています。
この治世において、藤原仲麻呂は、官名を唐風に改めるなど、権勢を振るうことになりました。

 

天平宝字4(760)年に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇は次第に主体的な言動を示すようになり、藤原仲麻呂や淳仁天皇との関係も薄れてきます。また自身が病気になった際に、禅師弓削道鏡に出会ったことで重用するようになりました。

 

孝謙上皇と道鏡は、淳仁天皇と藤原仲麻呂に反発を強め、窮地に陥った藤原仲麻呂は反乱を企てるものの、制圧されました。そして、淳仁天皇を廃位させ淡路へ流し自ら称徳女帝として再即位します。

 

称徳女帝は、弓削道鏡の重用もあり、仏教に傾倒していくことになり、とくに道鏡を特別優遇して、「法王」の位まで授けられ、それから天皇になりたいと考えることになったと思われます。しかし、和気清麻呂の働きによって、道鏡の野望が挫かれました。神護景雲4(770)年に、称徳女帝が病没すると、女帝の異母妹にあたる井上内親王を妃とする白壁王を皇太子に立て、光仁天皇が誕生しました。天武系の継承が途絶えて天智系に戻ります。

 

明正女帝

明正女帝は、後水尾天皇と徳川和子(まさこ)との間に誕生し、興子(おきこ)内親王といわれました。徳川将軍家を外戚とする唯一の天皇です。

 

明正女帝の先帝である後水尾天皇は、幕府との間に紫衣事件が起きたことで、朝廷と幕府の関係が悪化します。幕府への対抗手段として譲位を訴えます。しかし譲位が認められません。後水尾天皇と和子との間に誕生した皇子が誕生するものの、早逝してしまい、中々譲位すると言い出しても認めません。幕府側としては、皇子が誕生するまで譲位を引き延ばすことを考えていましたます。それを見越した後水尾天皇は、寛永6(1629)年に朝廷や幕府気づかれないように突然興子内親王に譲位してしまいます。

 

明正女帝に譲位の際に、皇子が誕生したら譲位することを示し、寛永20(1643)年に譲位します。明正女帝も先例に従い、生涯独身を通しました。

 

後桜町女帝

後桜町女帝は、桜町天皇と二条舎子との間に誕生し、智子(としこ)内親王といわれました。現在、日本の歴史における最後の女帝です。

 

宝暦12(1762)年に異母弟である桃園天皇の遺詔によって智子内親王が選ばれます。ただし、桃園天皇の皇子であり、後桜町女帝の甥である英仁親王が10歳になるまでの中継ぎとして践祚、即位しました。

 

明和7(1771)年に後桜町女帝は後桃園天皇に譲位して太上天皇になります。在位9年目になると、後桃園天皇は病死してしまい、欣子(よしこ)内親王しか子がいなかったため、新井白石の建言によって新たに創設された閑院宮家から閑院宮典仁親王の皇子である9歳の祐(さち)宮を後桃園天皇の養子にすることで次の天皇である光格天皇になりました。

 

光格天皇は後桃園天皇の養子となるものの、傍流となるため欣子内親王を皇后に迎えています。また後桜町上皇は幼主を輔導し、補佐しており、君徳育成にも心配りしました。


最後に

女性天皇の役割は、中継ぎといわれればそれまでかもしれません。また条件として、未亡人か未婚であり、女帝になれば生涯独身となる先例もあります。

 

しかし、元明女帝や元正女帝、後桜町女帝のように、次の天皇の君徳育成を行い、女帝としてできる最大限を行動で示しました。皇統が途絶えてしまえば、過去と変わらない未来を作ることはできないため、神功皇后や飯豊青皇女の先例を元にして、8方10代の女性天皇が即位して、未来に繋げていきました。

おすすめ本紹介

知っておきたい女性天皇とその歴史 推古天皇から後桜町天皇まで

 

著者

吉重 丈夫
よししげ たけお

出版社 PHPエディターズ・グループ
発売日 令和2(2020)年3月16日
ページ数 237ページ
金額 1,980円(税込)
ISBN ‎9784909417442

 

「女性天皇」の成立

 

著者

高森 明勅
たかもり あきのり

出版社

幻冬舎
幻冬舎新書

発売日 令和3(2021)年9月29日
ページ数 232ページ
金額 946円(税込)
ISBN 9784344986336

 

令和4(2022)年12月4日公開